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お気楽妄想系のページf^^; 荒らし投稿がつづくのでコメントは承認制としました。
最新版『指輪物語』の読み直し―ホビット庄の地名などの変更

トールキンの『指輪物語』を最新版で読み直しています。まだ「旅の仲間」第1巻の中ほどですが、ここまでで気がついた表記変更について、書いておきます。改訂はカタカナ書きだけでなく、ホビット庄の地名や固有名詞についても対象となっていて、いままでなじんでいた名前が変わりました。気が付いたものを下に紹介します。左が旧訳で右が新訳です。

 

・切株村→ところざわ村
・金のとまり木館→金鱒館
・畦更→豆畦
・バックル村→バックルベリ
・堀窪→くり窪

 

こうしてみると、ある程度意訳だったのがより原語に忠実にされた感じ? フロドが袋小路屋敷を処分して、バック郷に構えた新居の地名が「くり窪」に変わっています。ピピンいわく、東四が一の庄でいちばんビールがうまいと評判の「金のとまり木館」は「金鱒館」に看板替えです。この調子だと、ほかの旅籠の名称も変わっていないか気になる。ほかにもカタカナ書きがちょこちょこ変わっていますが、それほど気になる変更ではありません。

 

さて、フロドたちはいま「豆畦」のマゴットじいさんの土地に入り込んで、「くいつき」、「きば」、「おおかみ」のお出迎えを受けたところf^^;。その前日にはギルドールが率いるエルフたちと出会っています。このシーンは、みっちが初めて読んだときにもっとも大きな衝撃を受けたところで、今回も泣けてしまいました。懐かしいのと、やっぱりすごいというのと……。『指輪物語』は読み始めて最初のあたりで挫折してしまう人が多いらしいですが、ここまで読めばもう安心というか、ここからはもう目が離せなくなると思うんですよ。しかしギルドールはここしか出番がなく、映画には名前すら出てこない(爆)。

posted by みっち | 13:56 | Tolkien | comments(0) | - |
J.R.R.トールキン 世紀の作家

・J.R.R.トールキン 世紀の作家
 

トム・シッピー 著、沼田香穂里 訳、伊藤盡 監修、評論社


年末年始に読んだ2冊目の本です。2015年の出版。出ていることは知っていたのですが、装丁に購買意欲がわかず、スルーしていました。だってほら、水彩画風の表紙絵がメルヘンチックで、小さな妖精やユニコーンとかがちりばめられています。これはブームに乗っかった「便乗本」あるいは「勘違い本」ではないのかと怪しんだというのが実情。申し訳ありませんでした! ちなみに装丁者だれなんだろう? 明記されていないようですが。
 

結論から言えば、トールキン作品の解説本として、これは真っ先に挙げられるべきものでしょう。『ホビットの冒険』や『指輪物語』について、よく飲み込めなかったことや疑問に感じていたことが腑に落ちるのはもちろん、書かれるまで気が付かなかったことも含めて、解き明かしてくれます。著者シッピーの作品考察は驚くほど深いものがあります。というのも、彼はリーズ大学でトールキン以来空席になっていた英語・中世文学の教授だった人で、つまりトールキンと同じ文献学の専門家です。トールキンが古い文献にある語句からその本来の意味を探り、いまは失われた伝説を体系として蘇らせようとした手法とその水準がどれほどのものか判断できるのは、彼を置いてほかにはいなさそう。
 

とくに『指輪物語』の「悪の概念」以降の考察は圧巻といっていいでしょう。シッピーは、指輪に関するガンダルフの主張をつなぎ合わせて、次の格言を掲げます。「すべての権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」。うん、これだけでも納得の結論。ですがシッピーは、ここから始めます。例えば「指輪の幽鬼」がどのようにして成立したのか、悪の両義性、「フロド」の名前の由来とその意味などなど。物語の要素が次々に解明されていく様はスリリングなほど。具体的な中身は、ぜひ読んでね(爆)。
 

キリスト教との関係についても説得力があります。トールキンは、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』をキリスト教的寓意が露骨すぎるとして批判的だったようですが、このことからもわかるように、トールキンの作品において宗教的な要素は慎重に扱われています。そもそも「中つ国」の歴史は、キリスト以前というか人類史の「前史」として想定されているわけで、そのような寓意があちこち顔を出していたらむしろおかしいというもの。シッピーは日付に注目して、『指輪物語』で旅の仲間が裂け谷を出発したのが12月25日、指輪が破壊されサウロンが没落したのが3月25日だと指摘しています。12月25日はもちろんクリスマス(キリストの誕生日)、3月25日はイングランドの古い伝統ではキリスト磔刑の日すなわち聖金曜日であり(暦の変更で現在は違う)、同時にこの日は受胎告知の日でもあるそうです。物語の内容というよりも節目を重ね合わせていた。シッピーはこれをトールキンの一種の署名、信仰の証だと考えています。

 

作品解説だけでなく、トールキンに対するさまざまな批判についても反論が加えられています。これがまた手厳しい。結論的には、トールキンの作品は「高尚な好み」を仲介する権威である批評家、教育者、読書家たちを脅かし、彼らの怒りや恐れを呼ぶのだとしています。つまり「階級的な敵意」だと。シッピーの批判は、前回エントリした『J.R.R.トールキン―或る伝記』の著者であるハンフリー・カーペンターさえもやり玉に挙げています。これには驚きました。カーペンターは、トールキンを信奉する人たちを「アノラックを着た輩」と言って侮蔑していたらしい。まあ、カーペンターにしてみれば、自分が貶したのはトールキンの信奉者であって作品ではないというかもしれませんが、これが「階級的な敵意」だという誹りは免れないでしょう。
 

このように、盛りだくさんでありながら示唆的で水準が高く、もっと早く読むべき本でした。翻訳者は沼田香穂里さんで、『ベレンとルーシエン』の前の仕事でもあり、この方が今後『フーリンの子供たち』や『ゴンドリンの陥落』に取り組んでもらえるなら安心です。

posted by みっち | 09:51 | Tolkien | comments(0) | - |
J.R.R.トールキン―或る伝記

2023年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。


先月のエントリにも書きましたが、年末年始はトールキン本に囲まれたまま、現在形です。そもそもは『指輪物語』の最新版を入手したので、改訂訳で読み直すつもりだったのが、ウィキペディアに『トム・ボンバディルの冒険』をアップするために図書館で借りた本が加わり、返すまでにそれらを読んでおかなくちゃ、ということで、まず『ベレンとルーシエン』を読んでエントリし、はい次また次、ということで、『指輪物語』の方はフロドが袋小路屋敷を出発した場面のまま年越し。なにやってるんだろ(爆)。


とまあそんな感じですが、その後に読んだ2冊のうちの1冊をご紹介です。新しい本では全然ありません。

 

 

・J.R.R.トールキン―或る伝記
 

ハンフリー・カーペンター 著、菅原啓州 訳 評論社
 

1982年の出版。トールキン「公認」の伝記と謳われていて、出たときから知っていた本です。通常、作品と作者の伝記は切り離していいと考えているため、パスしてました。『三銃士』が好きだからデュマの伝記を読むかといえば、そんなことはないわけで。しかし、トールキンに関しては通常ではなかった。なぜなら、トールキンの「中つ国」は、彼の人生とともに生まれ、成長してきたものだからです。


ただしこれはユニークともいえる伝記です。なにしろ、彼の前半生を描いた時点で、その後はなにも起こらなかったと著者は述べています。いやいやなにも起こらないって、トールキンが『ホビットの冒険』や『指輪物語』を書くのは「その後」なんですけど! しかしカーペンターにいわせれば、彼が仕事をし、家族を養い、本を書いたというのは、伝記でわざわざ触れるような「事件」ではないということらしい。
 

ある意味、それは正しいのかもしれません。トールキンは4歳で父を、12歳で母を亡くしています。プロテスタントからカトリックに宗旨変えした母親について、トールキンは「殉教者」として捉えていたようです。16歳で3歳年上のエディスと出会い、成人するまで彼女との面会も手紙のやり取りも禁じられたものの、それを乗り越えて21歳で結婚します。第一次世界大戦のさなか、1916年にソンムの戦いに参加、大学の親友だった3人のうち、2人を失います。トールキン自身は塹壕熱にかかって本国送還され、その後リーズ大学を経て1925年にオックスフォード大学の教授に就任。「そしてこれから後は、とりたてて何事も起こらなかった」。
 

トールキンが敬虔なカトリック信仰の持ち主だったことや、妻エディスをエルフのルーシエンになぞらえていたこと、『指輪物語』の旅するホビットたちが4人であること、創造された「中つ国」の世界と豊かな自然、歴史の背景に感じられる悲哀など、多くのことが彼の前半生に根ざしていると理解されます。
 

もちろん、その後もトールキンの経歴と生活は続くわけで、どのような経緯からどのような作品が生み出されたかということも書かれていますが、業績の詳しい内容や作品の解説・評論などには踏み込みません。その分事実を淡々と、要点を抑えて簡潔に記述しているので読みやすい。それでいて、トールキンの人となりは十分に伝わってきます。「インクリングス」での活動やC・S・ルイスとの交流、ルイスとの関係の推移についてもわかりやすい。というわけで、トールキンべったりの伝記を予想すると、え?となる部分もありますが、客観的な記述という点に関しては見事といえます。下手な解説本よりもためになる。トールキンファンなら、一家に一冊の基本アイテムでしょう。図書館で借りて読んだけどf^^;。

posted by みっち | 16:24 | Tolkien | comments(0) | - |
ベレンとルーシエン

・『ベレンとルーシエン』
 

J・R・R・トールキン著、クリストファー・トールキン編
アラン・リー絵、沼田香穂里訳、評論社

 

トールキンが創造した「中つ国」の物語で、トールキンが生前に出版したのは『ホビットの冒険』と『指輪物語』でした。この二つの物語は連続していて、どちらも中つ国第三紀の終わりに位置づけられました。第三紀の前にはもちろん第一紀と第二紀があり、第一紀の前にも世界に太陽が登るまでの歴史というか「神話」が構想されており、これらはトールキンの死後に彼の三男クリストファーによって『シルマリルの物語』としてまとめられています。


だから、『ホビットの冒険』と『指輪物語』、そして『シルマリルの物語』があれば、一応トールキンの「中つ国」世界の歴史設定を概観することができますが、『ホビットの冒険』・『指輪物語』と『シルマリルの物語』では、タイムスケールが全然違うわけです。前者は両方合わせてもだいたい100年くらい、後者は宇宙の始まりからだから何万年ものスパンがある。トールキンは、『ホビットの冒険』よりずっと早くから『シルマリルの物語』に取り組んでいて、これは、彼が考案したエルフ語の背景として、固有の名前とともに必然的な結びつきの研究・考察の積み重ねです。子供向けに書かれた『ホビットの冒険』の方がむしろ「脱線」だったわけで、しかしその続編として書き始められた『指輪物語』が第三紀を終わらせる指輪戦争を扱ったことで、両者が相互作用で深められたと。


などと、ここまで長々と前置きを書いてきたのは、自分の中で整理をつけるためでした。ご了承ください。さて、クリストファーによれば、『ベレンとルーシエン』は、上古の時代(第一紀)の「三大物語」のひとつで、あとの二つは『フーリンの子供たち』と『ゴンドリンの陥落』となっています。クリストファーは、この三作をまとめ上げて2020年に亡くなりました。実際に出版された順番とは違っていますが、邦訳は歴史順?で『ベレンとルーシエン』がまず出ました。
 

トールキン・ファンならだれでも知っていますが、トールキンはルーシエンを妻エディスに、ベレンをトールキン自身になぞらえており、この二人が中つ国の歴史に果たした役割もまたきわめて重要です。トールキンはこの物語を、ときには詩として、ときには散文として、ときには概略、ときには別の物語の中でという風に、繰り返し扱っていて、二人が出会い、やがてモルゴスからシルマリルの一つを奪うというおおよそのストーリーは同じですが、その経過や細部は変わっています。その変遷がわかるように整理されたのがこの本。


もっとも印象に残るのが、最初期の「ティヌーヴィエルの物語」でしょう。ここではベレンはルーシエンと同じエルフで(物語中では「ノウム」。エルフにもいろいろ違いがある)、後にエダインと呼ばれる人間に設定変更されます。「中つ国」においてエルフと人間が結ばれた例は3組しかなく、ベレンとルーシエンはその最初です。その後には、トゥオルとイドリル、そしてアラゴルンとアルウェンがあり、そのいずれもがドラマティックな展開を伴っています。
 

さらに興味深いのは、ベレンとルーシエンがアングバンドに向かう途中、後の物語では二人を遮るのがスゥーことサウロンですが、ここで登場するのは「猫大公」テヴィルドです。トールキンがネコを扱うことは滅多にないんですよ。みっちが知る限り、詩集『トム・ボンバディルの冒険』の中の「猫」と、あとは『指輪物語』の中でアラゴルンがいわくありげに触れる「ベルシエル王妃の猫」ぐらい。で、どれもあまり後味のいい内容ではないf^^;。テヴィルドも、ヴァリノールの猟犬フアンに負けて魔力を失い、猫たちは無情な存在になったと語られます。ちょっとひどくない? ネコはイヌのようにシッポを振ったりしないし、番犬の役割も果たさないけど、岩合光昭さんの題材にはなるし、♪チュール、チュールって最後まで歌い終わらないうちに飛びついてきますが(爆)。


あと、表紙絵や挿絵はアラン・リーで、ルーシエンを乗せたフアンは馬並みのデカさ。フアンって、なに犬だったんでしょうね。みっち的にはメガ・ブルドッグ(爆)風味なイメージなんですが、アラン・リーのは違っていて、スマートで耳が小さくオオカミのような灰色の体毛です。
 

という感じで、面白い読み物でした。おそらくは今後これに『フーリンの子供たち』と『ゴンドリンの陥落』が続くと予想できるので、3冊セットで買おうと思います。現時点では、最新版『指輪物語』で改訂された固有名詞のカナ書きが今後統一されていくでしょうから、それが落ち着くまでしばらく待った方がいいかなとか考えています。

posted by みっち | 21:47 | Tolkien | comments(0) | - |
いま読んでいるトールキン本

なんかいろいろと起こし起こってはいるんですが、まとまったものはなにひとつないということで、とりあえず読書関係での近況報告です。


1. 最新版『指輪物語』
 

今年の10月に評論社文庫として『指輪物語』の最新版が刊行されました。固有名詞の見直し、カナ表記の最終的な改訂がなされたということで、全6巻を購入。「旅の仲間」上巻の巻末にある伊藤盡さんの解説をチラ見したところによると、具体的にはイシルドゥア、ボロミア、ファラミアなどの語尾が「ル」に変わってイシルドゥル、ボロミル、ファラミルとなっているらしい。この変更に伴って抑揚も変わり、ボロミル、ファラミルは語頭にアクセントがくるようになりました。イシルドゥルがどう読むのかは書いてないですが、これも語頭強勢? 本文を少し読んだところ、スミアルはスマイアルになっていました。
 

せっかくなので、これから年末年始にかけて久しぶりに『指輪物語』の読み直しの予定。ガンダルフのセリフのひとつひとつがうれしい。そしてメリーの初セリフがこれ。
 

「お世辞さ、」と、メリー・ブランディバックがいいました。「だから、事実は、しからずですよ。」


やっぱりいいなあ!

 

2. 『ベレンとルーシエン』
 

『指輪物語』でしめしめと思っていたら、評論社から『ベレンとルーシエン』も出ていたことを知りました。もう2年も経ってる。迂闊じゃった(爆)。読むなら先にこっちだろ! というわけで「旅の仲間」を読みかけのまま、いま図書館で借りて読んでいる最中。
 

「中つ国」第一紀を描いたトールキンの遺稿としては、『フーリンの子供たち』、『ベレンとルーシエン』、『ゴンドリンの陥落』をクリストファーがまとめてくれているのですが、日本語翻訳では『ベレンとルーシエン』を一番に持ってきたということは、「歴史三部作」としての順序に配慮したということ? 続巻にもぜひ期待したい。
 

訳は沼田佳穂里さん。田中明子さん亡き後はこの方が後を継いだということだろうか? 編者の名前がこれまでの「クリストファ」から「クリストファー」に変わっていることにまず気付かされます。まあ、もともとクリストファの方が違和感ありそうだったんですが、今後はこれで決定かな?
 

とりあえず浮かんだ疑問はいくつかありますが、内容を含めて、読了後にあらためてエントリしようと思っています。

posted by みっち | 12:08 | Tolkien | comments(0) | - |
戸田奈津子氏語る 理想の字幕

Yahoo!ニュースに BuzzFeed Japan のインタビュー記事が掲載されていたので読んでみました。ここで採り上げるのはもちろん、LotR字幕問題についても触れていたからで、その部分を下に引用します。

 

ネットで広がる誤訳批判。そして『ロード・オブ・ザ・リング』騒動


ネットでは、戸田さんが翻訳するときに使う独特の意訳や言い回しを「なっち語」と親しむ人がいる。その一方で、戸田さん独特の意訳や誤訳に対する批判の声が上がるのも事実だ。「誤訳の女王」とも呼ばれることも。

 

ネット上の批判について、戸田さんは「見ないから、何て言われているか知りません」。

 

戸田さんが字幕翻訳を担当した『ロード・オブ・ザ・リング』『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』は、原作に忠実ではないという批判が相次いだ。原作ファンを中心に、ネットで字幕修正や字幕翻訳の交代を求める署名活動が起きる騒動となった。

 

戸田さんは「言い訳や昔の話をしたくない」と最初に断りを入れながら『ロード・オブ・ザ・リング』騒動についてこう説明する。

 

「抗議をした方々は、数十年前の本の翻訳を聖書と思っているわけ。数十年前の翻訳ですよ?日々変わる言葉が、その間にどれだけ変化するか。今の観客が違和感を抱かない字幕にするのが当然じゃないでしょうか」

 

原作「指輪物語」は、瀬田貞二さんが1970年代に翻訳。当時、使われていたことばは通用しないと戸田さん。実際、原作の翻訳も1992年に翻訳が推敲されている。


まず、戸田氏が言っていること以前に、「原作に忠実ではないという批判が相次いだ」という地の文が違います。原作というより映画そのものに忠実でなく、シーンの意味が分からない、あるいは誤解を招く字幕だったという批判が相次いだのが真相でしょう。はじめから本題がずらされています。ここ、前から口を酸っぱくしていっているんですけど、採り上げ方がいつもこの調子なんですよね。で、戸田氏はそれをいいことに、「抗議をした方々は、数十年前の本の翻訳を聖書と思っている」と便乗しています。批判を見ず、何て言われているか知らないとしながら、原作原理主義者が騒いでいるだけみたいな判断をしている根拠はなんなんでしょうか?

 

もちろん瀬田貞二の翻訳に愛着はあるし、原作のテイストをこの翻訳で身につけたことは否定しません。みっちの場合は新版の翻訳ですが、部分的にしろ古めかしいと感じる表現は確かにあり、それを時代に合わせて改めること自体を否定するつもりもありません。しかし、問題はそこではない。「今の観客が違和感を抱かない字幕にするのが当然」なのに、今の観客が違和感ありまくりだったから批判されたんですよ。当然のことができておらず、映画が歪められている。だからこそ監督のPJまでもが動いて、RotKやその後のDVDでは監修がついて字幕が改善されたんでしょうに。戸田氏もそれを受け容れたんじゃなかったの? ま、この調子ですから反省はなく、これからも自分をごまかしつづけるつもりかな。これだから、なっち字幕の映画はもう観たくないんですよ。

 

もう一度念押し。原作に忠実でないという批判は、映画の脚本や演出に向けられたものはあったでしょうが、映画と原作とは別物であることはみんなわかって言っています。そのことと字幕の問題は別です。「原作との相違」ではなく、「映画の字幕」としてダメだった。それをすぐに指摘できたのが「原作ファン」であり、抗議したのはそうした原作ファンを含む「映画ファン」だった。このことがなぜこうも伝わらないのか、あるいは伝えようとしないのか、不思議です。

posted by みっち | 16:59 | Tolkien | comments(4) | trackbacks(0) |
サルマン死す
俳優のクリストファー・リーが今月7日に亡くなっていたそうです。93歳でした。ご冥福をお祈りします。

かつては怪奇映画の敵役、とくにドラキュラで大当たりした人で、みっちも子供のころにドキドキしながらテレビ放送を見ていた記憶があります。最近では、やはり『ロード・オブ・ザ・リング』と『ホビット』各シリーズでのサルマンでしょう。最期はPJ流でほとんどギャグだけど……。あ、もちろんドゥークー伯爵も忘れてはいけませんf^^;。

しかし正直なところ、リー師にはサルマンよりもガンダルフをやってほしかったなあ。たしか、本人も希望していたんじゃなかったかな? 年に一度は『指輪物語』を読み返すとも聞いていました。原作への深い理解と共鳴があっての演技でした。でも最期は(ry イアン・マッケランには悪いですが、リー師の灰色の魔法使い姿を一度拝んでみたかったですね。じゃあ、サルマンはだれがやるのかといわれると思いつきませんが、二役とか(爆)。

ウィキペディアの「クリストファー・リー」の項目で微笑んでいる写真を見ていると、泣けてきそうになります。 久しぶりに、今夜はトールキン・アンサンブルの『The Load of the Rings At down in Rivendell』を聴いて、お別れしよう。このCDには、リー師による朗読や木の鬚の歌(素晴らしい!)が収録されています。
posted by みっち | 23:31 | Tolkien | comments(0) | trackbacks(0) |
『ホビットの冒険』が映画に
以前から噂のあった『ホビットの冒険』の映画化がついに決まったとのこと。『ロード・オブ・ザ・リング』の監督ピーター・ジャクソンがひきつづきメガホンを取るようです。

映画は2部作とのことで、前作同様に同時撮影して編集、2010年及び2011年に公開予定だそうです。『指輪物語』の場合、三部作でも映画ではエピソードがかなり削られましたが、今度は1冊を二部にするので、むしろ内容をふくらませられるかもしれません。みっちの体験上、原作付きの映画化は、端折るよりふくらませる方が好結果に終わっている気がするので、この構想は歓迎します。ただ、そうなると、ふくらませ方が問題かも。

出そうなのはアル○ェン(爆)。なにせ、女っ気のまったくないお話ですからねー。ドワーフの何人かは女だという説もあるでしょうが、見た目で違いがわからないんじゃ意味ないでしょうしf^^;。あるいはビヨルンを女性にしてみるとか、うーむ、なんか違う世界が開けてきそう。

あと気になるのは、2部の分け方ですね。旅の中間あたりにくる「闇の森」が前になるか、後になるか。個人的には、闇の森の脱出で前編のエンディングというのはなかなかいいのではないかと思います。

キャストはこれからのようです。中でもエルフがやっぱり難しいでしょう。エルロンドは、できたら今度は若くて適度な額(爆)の人にやってもらいたい。そのかわり、スランドゥイルはある程度譲歩します(レゴパパだけど^^;)。

これを機会に、またLotRO人口が増えることを期待します。中つ国で遊びましょう!
posted by みっち | 18:01 | Tolkien | comments(6) | trackbacks(0) |
『指輪物語』再読:マゴットさん
ギルドールたちと別れて、バックル村の渡しまで近道しようと茂みの中を突っ切ることにしたフロド、ピピン、サムでしたが、見通しの利かないところをすすむうちに、南の方角にそれてしまいます。こうしてたどり着いたのが、畦更のお百姓、マゴットさんの家でした。

マゴットさんは、くいつき、きば、おおかみという3匹の番犬を飼っていて、子供のころバック郷に住んでいたフロドが、茸を盗もうとして犬をけしかけられたことがトラウマになっていたことが判明しますf^^;。LotROでもマゴットさんと3匹の犬が登場するので、ここを読むと、すっかりゲームの映像が浮かんできます。ただし、あの顔はちょっとイメージと違いますがf^^;。

このマゴットさんのせりふを読むと、一筋縄ではいかない、なかなかの役者だと感じさせます。

「急いでられるなら、街道の方がつごうがよかっったんじゃないかね。」とお百姓はいいました。「だが、わしはそんなことを気にしておったんじゃない。そうなさりたきゃ、かまわずわしの土地を通りぬけてけっこうじゃよ。ペレグリンの旦那。それからあんたもな、バギンズさん―たぶんあんたは今でも茸がお好きだろうがの」。彼は声をたてて笑いました。
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posted by みっち | 13:50 | Tolkien | comments(0) | trackbacks(0) |
LotR字幕問題のつづき:太田直子氏の訂正記事
4月のエントリ6月のエントリで触れていた映画『ロード・オブ・ザ・リング』の字幕問題で、太田直子氏の訂正記事が出されました。「字幕改善連絡室」で報告されています。
以下、「字幕改善連絡室」から、『通訳翻訳ジャーナル』(イカロス出版)2007年10月号、P187後半の引用です。

 「原作つながり」で、またまたこの場を借りてお詫びと訂正を。
 前々回の本欄で、拙著『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』の内容について、いくつか訂正を書きました。そのなかの「原作小説のファンから字幕に対して苛烈なクレームが押し寄せ……」というくだり。
 まず、配給会社にクレームを寄せた人たちは、生硬な「原作主義者」ではありませんでした。字数制限や、公開までの時間のなさなど、字幕特有の制約を理解したうえで、「それでも字幕のこことここはどうも納得いかないので、せめてDVDで検討し直してもらえないでしょうか」と丁重に、かつ、自分たちの実名・住所を明かした郵便物やFAXなどで抗議していました。ネット上だけの一方的なバッシングではないのです。
 私は、ちらっとかいま見た別の罵倒サイトと、この人たちとを混同し、きちんと確認しないままエッセイに「困った人々」というニュアンスで書いてしまいました。こうした記述にショックを受け、傷ついた人たちにお詫びします。

 もちろん字幕に絶対的な正解はありませんし、いろんな考え方があります。もしかすると今度は、字幕屋仲間や業界人から「何だよ、お前はあっちの肩を持つのか?」という批判がくるかもしれません。正直、ビビっています。
 でも、言いたいことはお互いどしどしぶつければいいのではないでしょうか。どちらも「いい映画をよりよい字幕で見てほしい(見たい)」という志は同じはず。敵対する意味はありません。前回の本欄で書いたごとく、字幕存亡の危機が迫っているかもしれないのです。共闘しましょうよ。
 万国の字幕派よ、団結せよ!
 字幕屋は銀幕の片隅でしつこく叫ぶのでした。
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posted by みっち | 19:21 | Tolkien | comments(2) | trackbacks(1) |