Search this site
お気楽妄想系のページf^^; 荒らし投稿がつづくのでコメントは承認制としました。
源平合戦の虚像を剥ぐ

『源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究』


川合 康 著、講談社学術文庫
 

井上寿一『戦争調査会』、呉座勇一『陰謀の中世日本史』に続いて読んだ日本史もの。著者は中世日本氏を専門とする歴史学者です。
 

下関生まれのみっちは、関門海峡に面した壇ノ浦や赤間神宮を身近に見て育ちましたから、源平ものには親しみがあります。中学生のころ吉川英治『新・平家物語』全11巻を読みました。このときは、はじめに10巻の壇ノ浦の戦いを読み、そこから遡って1巻まで読み、最後に11巻を読むということをやっています。知っているところをとっかかりにしたわけです。そんなわけで、タイトルにいう「虚像」とはなんなのか、期待しました。
 

前半は、平安末期から鎌倉時代初期あたりまでの合戦の実態についての考察です。武士は階級というよりも専門的な芸能職であり、騎乗して弓矢で攻撃する「馳射」と呼ばれる伝統的な戦闘法を得意としたのは平氏であって、騎馬戦に長けた坂東武者というイメージは実は根拠がないのだそうです。しかし、この時期に兵力動員数が飛躍的に増えたことにより、戦闘形態も変わっていったそうです。著者は、源氏と平氏の運命的な対立という見方は、「平家物語」に寄りかかった史観であり、実際には中央の平氏政権に対する同時多発的な地方の反乱の結果が頼朝による鎌倉幕府の成立だったとしています。
 

確かにほほう、と思わせる内容ですが、書きぶりはかなり地味で、読み物としての面白さにはつながっていません。例えば、当時の馬のサイズがポニー並に小さかったということの説明にかなりの分量を割き、現代のサラブレッドなどと同一視するのは間違いだというのですが、馬に乗る人間の体格についてまったく言及しないのはどうなんでしょうか。馬も人も小さかったら、バランス的には現代とそう変わらないことになるわけで、馬のサイズの大小がなににつながるのかが不明。また、わずかな兵力しか持たなかった頼朝に、千葉や下総の有力武士団が協力した理由を実情をふまえて説明していますが、そもそも同時多発的反乱がなぜ起こったかについてはさらっとしか触れてなく、本書の前に読んだ『陰謀の中世日本史』の方がこの点ではむしろよく書かれています。「平家物語史観」を批判するには、やや物足りない。
 

後半は、頼朝の奥州合戦に焦点が当てられています。この戦いは、義経と奥州藤原氏打倒に名を借りつつ、実のところは鎌倉政権下での御家人・所領の全国的な再配置をめざした一大デモンストレーションだった、という位置づけが明らかにされます。ここは読み応えあり。前半でも源平合戦の経過や平氏滅亡について、この調子で触れてくれればもっと面白かったんですが。唯一、富士川の戦いについて、鳥の羽音に驚いて平氏軍が逃げ出したというのは実際そのとおりだったと書かれるのみで、それ以外はほとんど触れられません。もしかすると、こういう話を期待してしまうこと自体が「平家物語史観」的な影響下にあると著者はいいたいのかもしれません。

posted by みっち | 21:05 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
陰謀の日本中世史

『陰謀の日本中世史』


呉座勇一著、角川新書
 

「ははあ、『応仁の乱』が売れたので、慌てて次の本を出したのだな」と思う人がいるかもしれないが、それは違うと「あとがき」に書かれています(爆)。ほぼ同時期に構想されたものの、先に出した『応仁の乱』の反響が大きくてこちらに時間がかかったらしい。みっちは『応仁の乱』は未読ですが、平安時代末期から関ヶ原の戦いまで広い時代を扱った本書に興味を惹かれて購入しました。
 

本書は、「保元・平治の乱」、「源平の戦い」、「鎌倉幕府と北条得宗家」、「建武の新政〜観応の擾乱」、「応仁の乱」、「本能寺の変」、「秀次事件〜関ヶ原の戦い」という大きく7つの時代について、巷にあふれる俗説や陰謀説を俎上に上げながら検証していくという流れです。これらについて、人並みの知識は持っていると思っていたみっちですが、えー、そうだったの?ということがけっこう多く、まさに目からウロコ。
 

例えば保元の乱ですが、崇徳上皇と藤原頼長に謀反の意思はなく、この乱は合戦というよりも信西による陰謀だったとされます。マジで? でも確かにそう考えてみると、いろいろしっくりくる。崇徳と頼長は親密でなく、謀反の噂を立てられ身の危険を感じて集まっただけで、保有兵力が少ないため、大和からの援軍を待とうとしたと説明されます。軍議で源為朝が夜討ちを進言したのに頼長が却下したという話は、こういう事情があって決戦を避けたかった(そもそもそんな意思がなかった)からだったとすると、なるほどーとなります。平治の乱のところでも後白河上皇は大ダヌキではなかったとか、鹿ヶ谷の陰謀はなかったとか、教科書で教えた方がいいんじゃない?と思える指摘がたくさんあります。平氏滅亡後の源頼朝・義経兄弟の確執についても、ほぼ真相と思われる解明がなされています。鎌倉幕府の章でも、源氏の将軍家断絶の後、ライバル武家を倒しまくった北条得宗家の安定政権かと思ったら、実はピンチの連続だったということがわかってびっくり。ほかにも足利尊氏は後醍醐天皇に恩義を感じていて裏切る気などなかったとか、日野富子は悪女ではなかったとか。詳しくは本書でお確かめくださいf^^;。
 

で、陰謀論はどうした?と思われるでしょうが、ちゃんとやり玉に挙がっていますからご心配なく。本能寺の変に関わるさまざまな黒幕説や関が原の真相などでは、それぞれの説を紹介しつつ、バッサリ。織田信長については、彼のような天才が簡単に騙されるはずがない、という思い込みから陰謀論が生まれるという指摘が印象的です。実のところ、信長は信頼を寄せた相手から裏切られることが多く、浅井長政、武田信玄、松永久秀、荒木村重、最後に明智光秀と、もう騙されまくりの人生でした。関ヶ原の戦いについては、家康の挑発どころか、実は西軍の蜂起によって家康が窮地に追い込まれていたこと、その流れが変わったのは、岐阜城攻防戦だったとされます。岐阜城の重要性を戦略的に捉えた説ってなかなか見当たらないのは、これも家康ほどの海千山千がヘタを打つはずがない、と目が曇っているからでしょう。「勝負というものは、双方が多くの過ちを犯し、より過ちが少ない方が勝利するのである」。そのとおり。
 

特徴的だったのは、陰謀論のパターンが太字で強調されているところ。このあたり、『トンデモ本の世界』とか『トンデモ本の逆襲』あたりの手法の反映でしょうか? 例えば「最終的な勝者が全てを予測して状況をコントロールしていたと考えるのは陰謀論の特徴」とか「事件によって最大の利益を得た者が真犯人である」とか。これらはむしろ推理小説の論法です。というよりも、陰謀論は推理小説のノリでこいつが犯人!というところから逆算して語られることが多いものなんですね。

posted by みっち | 17:53 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
戦争調査会

『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』


井上寿一著、講談社現代新書
 

歴史は好きだけど近現代は客観視が難しく、とくに戦争ものは生々しいため敬遠しています。にもかかわらず本書を手に取ったのは、「幻の政府文書」というキャッチコピーにまんまとはまったから。著者の井上寿一は学習院大学の現学長で、日本政治外交史が専攻とのことです。
 

戦争調査会は敗戦の原因と実相を明らかにすることを目的とした政府機関で、1945年11月、幣原喜重郎内閣のもとで設置されました。戦後の日本政府が自立的にこのような検証の取り組みをしていたことは、あまり知られていない事実でしょう。同調査会は発足から1年足らずの1946年9月にGHQの意向によって廃止され、その成果が日の目を見ることはなくなりました。残された資料や議事録から、同調査会がなにを明らかにしようとしていたのか、読み解こうとしたのが本書です。
 

戦争調査会には政治外交、軍事、財政経済、思想文化、科学技術の5部会が設けられていました。東京裁判と並行して戦犯容疑者の逮捕や公職追放がなされる中で、委員の人選には苦労があったようです。調査会の意義・位置づけに関するGHQとの調整問題もあり、結局これが廃止の原因となっています。敗戦直後に多くの公文書が破棄・焼却されるという困難もありました。最近の防衛省や財務省などの公文書管理問題は、いまに始まったことではありませんでした。軍事部会は結局一度も開催されなかったりと、バラツキはありましたが、現地調査も含めて網羅的・精力的に取り組まれています。調査会資料で不足している箇所は、著者が他の研究から補いながらおおよその姿をまとめ上げています。
 

「はじめに」にも書かれていますが、これらから浮かび上がってくる戦争への経過や実相は、現在までの研究を覆すようなトピックや新事実の発見ではありません。アメリカに勝てると誰も思っていなかったにもかかわらず、ずるずると開戦への道をたどり、開戦からわずか半年で敗勢に陥りつつも、やはりずるずると降伏を先伸ばしして未曾有の犠牲を出すに至った経緯は、いまさら聞くのもつらい話です。しかし、そうだとしても、他国からの圧力や押しつけではなく日本が自ら戦争原因を調べて解き明かそうとしていたことには重みがあります。とくに総裁・幣原喜重郎の不戦の決意が強調され、これが調査会設置となり、憲法第9条にも結びついたことは疑いないでしょう。少なくともこの点については、本書が刊行された意義と同時に、いまこれを読む理由があると感じました。

posted by みっち | 20:42 | 読書 | comments(2) | trackbacks(0) |
マーラーを識る

・『マーラーを識る 神話・伝説・俗説の呪縛を解く』


前島良雄 著、アルファベータブックス
 

著者の前島良雄氏とは、以前ちょっとした縁がありました。2012年のことです。当時『クラシックジャーナル』誌で「間違いだらけのウィキペディア クラシック編」という企画があり、これに氏も参加しておられることをご本人のブログで知りました。前島氏がとくにマーラー関係の記事に不満を示されていたことについて、ウィキペディア日本語版で一連のマーラーの交響曲記事を加筆した利用者として、みっちは当該ブログにコメントしました。それがこちら
 

コメントへの直接の応答はなかったのですが、その後前島氏が『マーラー 輝かしい日々と断ち切られた未来』と本書を相次いで刊行していることからして、みっちのコメントも参考になったのかと考えています。いやまあ、そんないきさつは全く無関係かもしれませんが、いずれにせよ、今後はこれらの著作を出典にしてウィキペディアの記事に反映させることが可能になったわけで、このこと自体は喜ばしいと思います。
 

どちらを読もうか迷ったのですが、基本的に『輝かしい日々と……』がマーラーの伝記、本書がマーラー作品を主題にしたもの、という切り分けのようであり、作品解釈に関心があるみっちは本書を選んだわけです。しかし、結論からいうと、全然物足りない。一応マーラーの各交響曲(「大地の歌」も入っています)ごとにセクションが分かれていますが、曲の標題あるいは通称についての事実関係と日本での扱いの変遷を追ったものがほとんどで、裏返していえば、ただそれだけ。
 

アルマの回想録にちなんだ「マーラー伝説」やマーラーの交響曲の商業主義的タイトルについて、前島氏が以前から異を唱えていたことは知っています。例えば、金子建志『こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲』や根岸一美・渡辺裕『ブルックナー/マーラー事典』など先行する著作でも、アルマの回想には信頼を置けないことや、それに基づく従来のマーラー観や音楽解釈が一面的すぎることがわかります。前島氏の主張自体は頷けるものです。とはいえ、それらはマーラーの音楽そのものとはさして関係のない、表層的な受容もしくは誤解に過ぎません。なぜ前島氏はもっと音楽そのものに踏み込んだ解釈や研究成果を披露しないのでしょうか。音楽の内容よりもタイトルの扱いの方が本質的で重要だと考えているのでしょうか。
 

また、交響曲第5番についてはさすがに標題関連のいちゃもんはありませんが、その代りに妙なことが書かれています。5番こそ1番である?? これまでにない作曲パターンだと「1番」とはだれが決めたルールでしょうか? マーラーが5番を「1番」と呼んだことでもあるのでしょうか。でなければ、マーラーの許しなく勝手に付けたキャッチフレーズという点で、前島氏が空疎だと批判してやまない「千人の交響曲」と同じでしょう。『マーラーを識る』などという誇張が過ぎるタイトルも、「夜の歌」と変わりはありません。
 

そういうわけで、啓蒙意識ないしはマーラー受容の現状に対する不満が高じてか、ところどころブーメランになっているのも残念。過ぎたるは及ばざるが如し。これではまっとうな批判の信憑性にまで疑問が生じかねません。まあ、金子本や『ブルックナー/マーラー事典』の前に目を通しておくくらいなら、内容の薄さも許せるでしょうが、逆だと得るものがありません。

posted by みっち | 20:49 | 読書 | comments(2) | trackbacks(0) |
筒井康隆コレクションVII

・『朝のガスパール』
・『イリヤ・ムウロメツ』
・『空飛ぶ冷やし中華』(抄)
・単行本&文庫未収録エッセイ


筒井康隆・著、日下三蔵・編 出版芸術社
 

忘れたころにやってくる筒井康隆コレクション全7巻でしたが、ついに最終巻となりました。
 

『朝のガスパール』はけっこう新しい作品だと思っていたけど、1992年の単行本だからもう26年前のことでしたか。月日が経つのは早いなあ。2000年ぐらいからの記憶があまりないような(爆)。当時はまだインターネットではなくパソコン通信だったんですが、これを取り込んだ重層的なストーリー展開は、いまなお斬新で追随を許さない面白さがあります。パソコン通信の描写は、インターネットのように開かれていなかった分まだ穏健なところもあったとはいえ、後の2ちゃんねるを始めとしたネット掲示板を予告するような内容になっているところもすごい。現実がようやく小説に追いついてきたということなのかもしれません。真鍋博の挿絵をすべて掲載しているところもポイントが高い。
 

『イリヤ・ムウロメツ』は、単行本で持っています。ロシアの口承叙事詩の世界を格調高い文体で再現しています。いま読んでも素晴らしい。こちらは手塚治虫のイラスト。共同作業の相手も超一流です。ついでにいえば、これを読んだことがきっかけとなり、みっちは後にウィキペディアに「ブィリーナ」を新規項目として立ち上げることになったのでした。
 

『空飛ぶ冷やし中華』も前に読んだことあるなあ。リレー小説になっていますが、平岡正明による「三倍達・峠の虎退治の巻」がとくに面白い。こういうナンセンスものが大好きだったんでf^^;。最近、『おそ松さん』で赤塚不二夫のマンガが復活していますから、タイミングもちょうどよろしい。
 

パート4の単行本&文庫未収録エッセイはけっこうたくさんあり、補遺集といった趣。ほとんど読んでいないか、読んだとしても忘れています。人生相談なんかもやってたんだ。その初回から「諸君もおれの回答を信じないほうがよい。だいたい人を信用するのがよくない。自分さえ信用していればよい。おれなどは自分自身でさえ信用していないのだ。」って開き直っているあたりが筒井流。


これでコレクション完結ですが、初出時のイラストの完全再現などのほか、編者の解説も行き届いており、大変充実したものになっていることは特筆できます。

posted by みっち | 21:10 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
筒井康隆コレクションVI

・『美藝公』

・『歌と饒舌の戦記』

・単行本&文庫未収録短篇

・単行本&文庫未収録エッセイ

 

筒井康隆・著、日下三蔵・編 出版芸術社

 

忘れたころにやってくる筒井康隆コレクション、全7巻中の第6巻。

 

『美藝公』(1981年)は、『旅のラゴス』(1986年)や『フェミニズム殺人事件』(1989年)などと並んで筒井の「ノスタルジック路線」ともいうべき系列に属する長編。刊行時に付いていた横尾忠則描く作中映画のオリジナル・ポスターも復刻されていて色鮮やかです。

 

人々がもう少し「二枚目」意識を持っていれば、世の中はもっとよくなる、というようなことを作者はエッセイに書いていたはずで、この物語はその延長線上にあります。「ユートピアSF」とも呼ばれており、SFっぽくなるのは物語の終盤、主人公たちがもし世の中がもっと違っていたらと語り合う、そのおぞましい世界こそが、まさに私たちの現実社会だという逆転的if世界になっています。ここに至る経過としてのユートピア世界の描かれ方がとても丁寧で説得力があり、さもあろう、いやそうでなければいけない。だのに、どうして現実は違ってしまったのか!と思わせる筆力に感心します。文中でとくに印象に残った言葉が二つあり、「観光資源ならある。―(中略)―しかし観光は輸出できない」、「社会的階級は役割、職業は役柄と考えてそれを楽しむ」というところでした。

 

『歌と饒舌の戦記』(1987年)は、読んだことがあるはずですが、断片的な記憶しかありませんでした。アメリカと密約を結んだソ連が北海道に侵攻してくるという、ふざけた、しかしもしかしたらと思わせる長編。いまならソ連ではなくアソコでしょうね。タイトルどおり、歌とおしゃべりをふんだんに盛り込みつつ、世界各地でドタバタ劇を繰り広げます。『美藝公』同様、アイデアだけでは書けない、相当綿密な取材や資料調べがあってこそ成立する物語です。作者自身も「おれ」として登場し、『イリヤ・ムウロメツ』(1995年)に関してキエフに行った体験にも触れられていて、へえーっ、そんなことがあったのかと。いま読んでもとても面白い。昔、「筒井康隆を電車で読んではいけない」というキャッチコピーがあり、車内で読むと思わず爆笑しそうになる、その典型的作品です。「タワリシチ」の連呼や「隣の美代ちゃん」には、思わずコーヒーを吹きそうになりました。しかし、これらのネタも含めて、わかる世代が限られてきていることは確か。

 

パート3の短篇では、「佐藤栄作とノーベル賞」がいろいろとヤバい。いわゆる「夢オチ」ですが、いまどき実名入りでこんなことを書ける人がいるのだろうか。ノーベル文学賞は毎年候補に上がる日本人がいるようですが、筒井康隆でいい気がしてきた(爆)。

 

パート4のエッセイでは、大阪万博ルポが懐かしい。みっちはほんの子供だったのでろくに覚えていません。新婚の叔父さん夫妻に連れられて万博に行ったのですが、それまで親から離れて遠くへ出かけるということがなかったので、親がついてこないと聞いて泣いた覚えだけはしっかりあるf^^;。人気パビリオンはどこも長蛇の列で、それでも三菱未来館は最初に行って見たのじゃなかったかと思うのですが、よく思い出せない。かろうじて、動く歩道はあったような気がします。あとは、アメリカ館の「月の石」とか、ソ連館のユニークな造形とか、そんな程度です。

posted by みっち | 00:30 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
作曲は鳥のごとく

吉松隆『作曲は鳥のごとく』

 

春秋社 2013年

 

日本人作曲家、吉松隆の自伝。この人のトロンボーン協奏曲『オリオン・マシーン』の初演(1993年)を、みっちは聴いています。日本フィルの定期会員だったときで、もうよくは覚えていないけど、現代ものにしては案外楽しめました。演奏後に客席から立ち上がり拍手に応えていた作曲者、たしかベレー帽を被っていたと思います。プログラム・ノートに吉松自身が「キワモノシリーズ」などと自嘲気味に曲紹介していたのも、ユーモアのある人だと好感を持ちました。その後、田部京子が弾いた『プレイアデス舞曲集』が人気になったりしたことは知っていましたが、CD買わなくなっていたこともあり、縁がありませんでした。NHK大河『平清盛』も、途中で観るのやめてしまったし。曲もあまり印象に残っていません。

 

14歳でベートーヴェンの「運命」を聴いて、クラシック音楽に目覚めたという体験はみっちと同じでしたが、違うのは、吉松隆はこのときスコアも見ながら聴き、「交響曲を書く」という決意を抱いたということです。その後はまったくの独学だそうで、がんばったなあ。世代が近いこともあって、社会背景や生活感がよくわかるため、自分のことのように読みました。クラシック音楽ではとくにシベリウスに大きな影響を受けたらしく、日本人では武満徹、松村禎三のほか、冨田勲と宇野誠一郎という、どちらかというと芸術ではなく娯楽音楽とみなされていた分野の作曲家に対しても同じように敬意を払っているのが特徴的です。

 

松村禎三とは「師事」といってもいい関係にあったようですが、実態は家に出入り・交流していただけで、いざ松村がなにか具体的に教えようとすると受け付けなかったという。とにかく「人から教えられる」ということを徹底的に嫌い、それを貫いたのがすごい。楽器演奏ならあり得ない、作曲だから可能なことでしょうね。反面、自分で気に入ったものはプログレから和楽まで時代やジャンルに関係なく幅広く取り入れ、吸収しているようです。作曲手法をけっこう細かいところまで明かしていて、手の内をここまで見せて大丈夫なのかと心配になるくらいですが、積み上げてきたものが違うのでマネされることもないのでしょう。

 

クラシック音楽の発展は、既存のルールを開放することで成し遂げられてきたにもかかわらず、現代音楽に至って「調性やメロディーがあってはならない」といったシバリをかけ、曲に少しでもそのような要素があると堕落とか大衆迎合などと排斥するようになった状況がリアルに語られています。人間って、成長過程では比較的寛容だったのが、ある程度の高みに達すると自らを窮屈にしたり排他的になったりするものなんでしょうか。守りたい意識なのかエリート意識なのかわかりませんが。このあたり、ちょっとウィキペディアを連想しましたよ(爆)。また、佐村河内の騒動前に出版されていることもあり、交響曲第1番<HIROSHIMA>を「多くの聴衆を感動の渦に巻き込んだ大作」として紹介しています。

 

すでに書きましたが、シベリウスには特別な思い入れがあるようで、宮沢賢治にも深く共感し、シベリウスの交響曲第6番と『銀河鉄道の夜』がシンクロして泣いたという体験、よくわかります。賢治同様、吉松のもっとも身近で理解者だった妹を亡くした話は涙なくしては読めません。で、もう交響曲第5番まで書いてるんだ、この人。同じ時代に生き、交響曲作家として初志貫徹中のホンモノの「現代のベートーヴェン」(いや、シベリウスかf^^;)、もう少し応援しなければいけないという気がしてきました。これを機会に、吉松作品を聴いてみたくなりました。

posted by みっち | 14:15 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
最近読んだベートーヴェン本

この間、「英雄」交響曲のプログラム解説を書くために読んだ本を紹介します。ほかにもっと読むべき本はあったのですが、今回は入手が間に合いませんでした。


◯『図説ベートーヴェン―愛と創造の生涯』
青木やよひ著、河出書房新社

 

ベートーヴェンの「不滅の恋人」について、アントニア・ブレンターノ説を採る著者の一冊。この人の本は随分昔に文庫でも読んだことがありました。「不滅の恋人」候補でもう一人有力なのがヨゼフィーネ・ブルンスヴィックで、どちらかといえばヨゼフィーネ説の方が優勢という印象がありますが、結論には至っていないようです。

 

現代に書かれた解説本としてはやや情緒的というか、感情移入しすぎな傾向を感じるところがありますが、それこそがこの著者の執筆理由なのでしょう。あくまで伝記主体で音楽の分析や解釈などには入り込むことはないので、読み物としては楽しめます。図説だけあって、写真や画像が豊富なのもいい。ちなみに「不滅の恋人」宛に書かれた手紙とともにベートーヴェンの遺品から出てきた肖像画は、確かにアントニアに似ています。ただし、エロイカについて書く参考には全然なりませんでしたf^^;。

 

 

◯『ベートーヴェンの日記』
メイナード・ソロモン編、青木やよひ・久松重光訳、岩波書店

 

1812年から1818年までの間にベートーヴェンが書き残していた記録をまとめたもので、日記というより備忘録的なものがほとんど。まとまった文章ではありません。しかし、ちょうどこのころは、ベートーヴェンにとって作品がほとんど残されていないスランプと見られる時期に当たっており、上記の「不滅の恋人」との破局も含め、こうしたメモを残す理由が彼にはあったようです。


ホメーロスやインド哲学、カントなどからの引用からは、ベートーヴェンに幅広い見識があったことと同時に、当時これらの言葉を胸に刻んで自らを励ましていたことがうかがわれます。にしても、使用人に対する不信感はなんなのかとも思うけど(爆)。伝聞でなくベートーヴェン自身が書き残したものという点でもちろん、この時期を経て後期の高みに達したことからしても、たいへん貴重なドキュメントといえます。ただし、これもエロイカの参考にはならずf^^;。

 

 

◯『鳴り響く思想 現代のベートーヴェン像』
大宮眞琴、谷村晃、前田昭雄監修、東京書籍


序論によれば、現在のベートーヴェン研究は細分化されすぎて、まとまった記述が困難になっているらしい。それを逆手に取ってということか、序論を含めて19人の担当者がそれぞれの視点・角度からベートーヴェンについて語るというコンセプトで、手法だけでなく結果としてもなかなか興味深いものになっています。


第5章「ベートーヴェンの経済生活」でなんか見覚えがあるというか、正直嫌いなタッチの文章で、担当者を見たら、以前シューマン本でお目にかかった井上和雄じゃありませんか。ここでは専門らしい経済学的な観点からベートーヴェンの生活ぶりについて語っていて、その限りでは面白かった。お金に関わることなら事実に即して書くこともできるんだ。とはいえ、せっかくの文章の前後に天才論とか芸術至上主義論とかをくっつけてぶち上げるのは勘弁してもらいたい。いいこと書いたつもりかもしれないけど、読まされた方はたまりません。

 

同じようなことが第10章の前田昭雄にいえます。例によってというか、知人に宛てた手紙のようなスタイルで、ここでは「児島さん」に向けて、これまた例によって有名出版社の博士が自分のところに相談に来たなどというエピソードを必ず盛り込んでくれています。こういうことを書かないではいられないらしいですが、「リア充」自慢してるヒマがあったら、日本語のシューマン本ちゃんと出してよね。


この中では第9章「《エロイカ》から《運命》へ」(大宮眞琴)が楽曲解説の参考になりました。このほか、いわゆるピリオド楽器による演奏比較や現在のベートーヴェン演奏についての批判など、うなずけるものが多かった。

 

 

◯『ベートーヴェンとその時代』
カール・ダールハウス著、杉橋陽一訳、西村書店


「大作曲家とその時代」というシリーズの1冊。約400ページの厚い本で、読み通すのに苦労します。訳者あとがきで大まかな要約がたどれるため、まずはそちらから読んだほうがいいかも。


一言でいって、回りくどい。過去から執筆時点にわたるさまざまな学説・解釈から引いてきており、博識なことはわかりますが、ああでもないこうでもないが多すぎて、結局なんなの? というところがどうもよくわかりません。実際、文体としても限定付きの否定や二重否定が多く、訳者あとがきではこのような否定形はほとんど見当たらないため、翻訳の問題というよりダールハウスのスタイルなんでしょう。あと、トポス、レプリーゼ、シンタクスなどなど、なじみのないカタカナ用語が頻出します。一部譜例が付いていて判明したのですが、レプリーゼとは再現部もしくは主題の反復のことらしい。これらはなんの前置きも注釈もなく使われます。官庁のカタカナ語の羅列も激しいけど、こっちも負けていない(爆)。


逆説的な解釈が多く見られますが、だからどうした的な印象から脱しない。例えば、「告別」ソナタについて、ダールハウスはこの曲の楽章経過は伝説的含意に入り込むのでなく、逆にそこから遠ざかっているとし、その論証の前提としては、出発点が結果を明らかにするのでなく結果が出発点を明らかにするということだ、などと述べています。これでも文章の順序などをいじってかなり読みやすくしたつもり。しかし、そもそもこのソナタは標題音楽というわけではないので、経過が標題的でないといったところでなにをいまさらだし、どっちがどっちをというより、音楽は出発点と結果の双方がお互いを照らし合うものではないでしょうか?


終始こんな調子で、最初はがんばって読んでいてもうんざりしてきて、あまり良く知らない曲や聞いたことのない評論家の話などは読み飛ばすようになり、ときに重要な示唆が含まれていたとしても、見逃してしまっていそう。例えば「英雄」第1楽章のチェロ主題は、分散三和音と半音階法という配置が「テーマ的なもの」なのだそうです。ダールハウスにとってはテーマとテーマ的なものは違うらしく、「テーマ法」とか「テーマ的布置」などの問題についていろいろ語っていますが、この辺は音楽学を専門にやっていないと理解不能かもしれません。テーマ的なものも含めてテーマなんじゃないの?などという大ざっぱな解釈は許されないみたい。晩年のダールハウスが孤立していたというのは、こうした言葉の迷宮に入り込むような面倒臭さに原因があるのではなどと、余計なところに気を回してしまいました。


ベートーヴェンとその作品についてというより、ベートーヴェンを語る方法論についての方法論になってませんかね、これ。少なくとも、『ベートーヴェンとその時代』というタイトルには偽りあり。このことを自覚しているらしい著者は「前書き」で言い訳していますが、このそもそもからして遠回し。

posted by みっち | 12:40 | 読書 | comments(4) | trackbacks(0) |
筒井康隆コレクション V

1. 『フェミニズム殺人事件』
2. 『新日本探偵社報告書控』
3. 『12人の浮かれる男』
4. 『女スパイの連絡』

 

(日下三蔵・編 出版芸術社)

 

全7冊の第5巻。『フェミニズム殺人事件』以外は未読でした。

 

『フェミニズム殺人事件』は1989年発表のミステリ作品。この作品の連載中には犯人当ての読者イベントが開催されており、作者による結果発表も収録されています。見事正解者がいますねえ。みっちは以前読んでいましたが、舞台となった古き良きを思わせる南紀のホテルのイメージとラストの主人公の台詞のみ記憶に残っていて、トリックや犯人などについては全然覚えていませんでした。あらためて読んでもさっぱり謎解きできず、アタマの悪さを痛感f^^;。でも、何年か経ったら、やはりホテルのノスタルジックなたたずまいと主人公の最後の一言だけは覚えている気がする(爆)。

 

また、作中で『文学部唯野教授』(1990)や『パプリカ』(1993)という、まだ発表前の作品タイトルがネタに使われているのが興味深い。時期的に、唯野教授は執筆中だったのかもしれませんが、パプリカはまだ構想段階? 筒井の推理ものでは、もっと前の『富豪刑事』(1978)もスチャラカで面白いんですが、もうひとつ『ロートレック荘殺人事件』(1990)があって、これはまだ読んでいません。

 

『新日本探偵社報告書控』(1988)は、筒井作品には珍しい、松本清張を思わせるような実録風の中編。戦後間もなくから昭和30年代初頭にかけての大阪が描かれています。実際に探偵業をやっていた叔父さんの記録からこの作品を思い立ったものらしい。作中で紹介される探偵社の報告がカタカナ書きで読みにくかったり、淡々とした筆致で物語として特段起伏があるわけでもないのですが、これらはあえてそうやっているんでしょう。読み進むうちに、実にリアリティに富んだ過去の世界が開けてきます。みっちの親世代やその上の人が読んだら、そうだった、こんなんだったとかみしめてしまうに違いない。『フェミニズム殺人事件』でも少し触れましたが、筒井の「ノスタルジック路線」とでもいえそうな系列に属する作品かと。

 

『12人の浮かれる男』(1975)は、同名の戯曲が存在することは知っていたのですが、小説版が先だったんですね。タイトルでおわかりのように、アメリカ映画の名作『十二人の怒れる男』(1957)のパロディ作品で、浮かれた陪審員たちが無実と思われる被告をよってたかって有罪にしてしまうというお話(爆)。この12人がみなキャラが立っているのがすごい。さすがです。

 

『女スパイの連絡』(1968)は、単行本未収録のショートショート。笑えます。

 

今回も解説が素晴らしく、前巻での眉村卓との合作では眉村から直接フォローがあったことが紹介されたり、いい仕事してるなあと感心させられました。

posted by みっち | 21:33 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
人はさまざま 歩く道もさまざま
芥川也寸志 対話集
(芸術現代社)


4月の北九響定期演奏会で芥川也寸志の『交響管弦楽のための音楽』を演奏することになり、プログラム解説でみっちがこの曲を担当することになったため、いくつか関連本を読んだ中の一冊。

1978年初版で、対談相手が横尾忠則(イラストレーター)、篠田正浩(映画監督)、仲谷昇(俳優)、小倉寛太郎(ハンター)、糸川英夫(工学博士)、平野威馬雄(フランス文学者)、橋本忍(脚本家)、松平康隆(元全日本男子バレーボールチーム監督)、皆川達夫(音楽学者)、柳原良平(イラストレーター)、中島みゆき(シンガーソングライター)、植草甚一(評論家)、寺山修司(詩人)、多湖輝(心理学者)という顔ぶれ。いまからざっと40年前にどんな人が第一線で活躍していたかがわかります。さすがに物故者が多いですが、いまだに現役の人がいるのはすごいですよね!

芥川は必ずしも聞き手というわけではなく、自分からけっこう語っています。作曲については、「プラスでなくマイナスの音楽」を構想していたようで、何回か触れています。ピアノの鍵盤を全部鳴らして、そこから音を引いていくような実験もしていたらしい。シューマンの『蝶々』のラストで、和音から順次指を離して消えていくのに似たイメージでしょうか。チェロを弾く糸川英夫には、芥川が「オーケストラなんか練習していて、(チェロパートに)もっと高くお願いしますっていうと、ハイハイって、どんどん姿勢が低くなっていく。(笑)」とやっているんですが、そういう楽器なんだからしょうがないじゃん、ていうかおかしくない? どんだけ高くお願いしてるわけ(爆)。一方で、音楽学者の皆川達夫とは、「中世ルネサンス音楽史の権威」と紹介しながらワイン談義に終始していますf^^;。これはこれで楽しい。

どの対話も面白いんですけど、いちばん印象に残っているのはハンターの小倉寛太郎かな。アフリカで実際に猛獣を狩っていた人の体験談で、ちょっとほかでは聞けないし、いまではもはや無理かも。芥川のオカルト嗜好?も多分に現れていて、横尾忠則とは初っぱなから空飛ぶ円盤を見た話で盛り上がって、あ然とさせてくれます。平野威馬雄ともお化け談義が繰り広げられ、芥川が「コックリさん」で百発百中だと自慢しているのがニントモカントモ(爆)。寺山修司との対話では、芥川が屍衛兵の経験を語っています。死体置き場の外で見張り番をしていると、背後で何体もの死体が死後硬直によって寝返りを打ったり床に爪を立てたりする音が夜通し聞こえたというのが、なんともすさまじい……。あと、芥川自身は「なんとなく腎臓で死ぬっていう予感」を語っていますが、ウィキペディアには肺癌で逝去とあるので、これは外れたみたいです。
posted by みっち | 21:12 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |