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お気楽妄想系のページf^^; 荒らし投稿がつづくのでコメントは承認制としました。
筒井康隆コレクションVI

・『美藝公』

・『歌と饒舌の戦記』

・単行本&文庫未収録短篇

・単行本&文庫未収録エッセイ

 

筒井康隆・著、日下三蔵・編 出版芸術社

 

忘れたころにやってくる筒井康隆コレクション、全7巻中の第6巻。

 

『美藝公』(1981年)は、『旅のラゴス』(1986年)や『フェミニズム殺人事件』(1989年)などと並んで筒井の「ノスタルジック路線」ともいうべき系列に属する長編。刊行時に付いていた横尾忠則描く作中映画のオリジナル・ポスターも復刻されていて色鮮やかです。

 

人々がもう少し「二枚目」意識を持っていれば、世の中はもっとよくなる、というようなことを作者はエッセイに書いていたはずで、この物語はその延長線上にあります。「ユートピアSF」とも呼ばれており、SFっぽくなるのは物語の終盤、主人公たちがもし世の中がもっと違っていたらと語り合う、そのおぞましい世界こそが、まさに私たちの現実社会だという逆転的if世界になっています。ここに至る経過としてのユートピア世界の描かれ方がとても丁寧で説得力があり、さもあろう、いやそうでなければいけない。だのに、どうして現実は違ってしまったのか!と思わせる筆力に感心します。文中でとくに印象に残った言葉が二つあり、「観光資源ならある。―(中略)―しかし観光は輸出できない」、「社会的階級は役割、職業は役柄と考えてそれを楽しむ」というところでした。

 

『歌と饒舌の戦記』(1987年)は、読んだことがあるはずですが、断片的な記憶しかありませんでした。アメリカと密約を結んだソ連が北海道に侵攻してくるという、ふざけた、しかしもしかしたらと思わせる長編。いまならソ連ではなくアソコでしょうね。タイトルどおり、歌とおしゃべりをふんだんに盛り込みつつ、世界各地でドタバタ劇を繰り広げます。『美藝公』同様、アイデアだけでは書けない、相当綿密な取材や資料調べがあってこそ成立する物語です。作者自身も「おれ」として登場し、『イリヤ・ムウロメツ』(1995年)に関してキエフに行った体験にも触れられていて、へえーっ、そんなことがあったのかと。いま読んでもとても面白い。昔、「筒井康隆を電車で読んではいけない」というキャッチコピーがあり、車内で読むと思わず爆笑しそうになる、その典型的作品です。「タワリシチ」の連呼や「隣の美代ちゃん」には、思わずコーヒーを吹きそうになりました。しかし、これらのネタも含めて、わかる世代が限られてきていることは確か。

 

パート3の短篇では、「佐藤栄作とノーベル賞」がいろいろとヤバい。いわゆる「夢オチ」ですが、いまどき実名入りでこんなことを書ける人がいるのだろうか。ノーベル文学賞は毎年候補に上がる日本人がいるようですが、筒井康隆でいい気がしてきた(爆)。

 

パート4のエッセイでは、大阪万博ルポが懐かしい。みっちはほんの子供だったのでろくに覚えていません。新婚の叔父さん夫妻に連れられて万博に行ったのですが、それまで親から離れて遠くへ出かけるということがなかったので、親がついてこないと聞いて泣いた覚えだけはしっかりあるf^^;。人気パビリオンはどこも長蛇の列で、それでも三菱未来館は最初に行って見たのじゃなかったかと思うのですが、よく思い出せない。かろうじて、動く歩道はあったような気がします。あとは、アメリカ館の「月の石」とか、ソ連館のユニークな造形とか、そんな程度です。

posted by みっち | 00:30 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
作曲は鳥のごとく

吉松隆『作曲は鳥のごとく』

 

春秋社 2013年

 

日本人作曲家、吉松隆の自伝。この人のトロンボーン協奏曲『オリオン・マシーン』の初演(1993年)を、みっちは聴いています。日本フィルの定期会員だったときで、もうよくは覚えていないけど、現代ものにしては案外楽しめました。演奏後に客席から立ち上がり拍手に応えていた作曲者、たしかベレー帽を被っていたと思います。プログラム・ノートに吉松自身が「キワモノシリーズ」などと自嘲気味に曲紹介していたのも、ユーモアのある人だと好感を持ちました。その後、田部京子が弾いた『プレイアデス舞曲集』が人気になったりしたことは知っていましたが、CD買わなくなっていたこともあり、縁がありませんでした。NHK大河『平清盛』も、途中で観るのやめてしまったし。曲もあまり印象に残っていません。

 

14歳でベートーヴェンの「運命」を聴いて、クラシック音楽に目覚めたという体験はみっちと同じでしたが、違うのは、吉松隆はこのときスコアも見ながら聴き、「交響曲を書く」という決意を抱いたということです。その後はまったくの独学だそうで、がんばったなあ。世代が近いこともあって、社会背景や生活感がよくわかるため、自分のことのように読みました。クラシック音楽ではとくにシベリウスに大きな影響を受けたらしく、日本人では武満徹、松村禎三のほか、冨田勲と宇野誠一郎という、どちらかというと芸術ではなく娯楽音楽とみなされていた分野の作曲家に対しても同じように敬意を払っているのが特徴的です。

 

松村禎三とは「師事」といってもいい関係にあったようですが、実態は家に出入り・交流していただけで、いざ松村がなにか具体的に教えようとすると受け付けなかったという。とにかく「人から教えられる」ということを徹底的に嫌い、それを貫いたのがすごい。楽器演奏ならあり得ない、作曲だから可能なことでしょうね。反面、自分で気に入ったものはプログレから和楽まで時代やジャンルに関係なく幅広く取り入れ、吸収しているようです。作曲手法をけっこう細かいところまで明かしていて、手の内をここまで見せて大丈夫なのかと心配になるくらいですが、積み上げてきたものが違うのでマネされることもないのでしょう。

 

クラシック音楽の発展は、既存のルールを開放することで成し遂げられてきたにもかかわらず、現代音楽に至って「調性やメロディーがあってはならない」といったシバリをかけ、曲に少しでもそのような要素があると堕落とか大衆迎合などと排斥するようになった状況がリアルに語られています。人間って、成長過程では比較的寛容だったのが、ある程度の高みに達すると自らを窮屈にしたり排他的になったりするものなんでしょうか。守りたい意識なのかエリート意識なのかわかりませんが。このあたり、ちょっとウィキペディアを連想しましたよ(爆)。また、佐村河内の騒動前に出版されていることもあり、交響曲第1番<HIROSHIMA>を「多くの聴衆を感動の渦に巻き込んだ大作」として紹介しています。

 

すでに書きましたが、シベリウスには特別な思い入れがあるようで、宮沢賢治にも深く共感し、シベリウスの交響曲第6番と『銀河鉄道の夜』がシンクロして泣いたという体験、よくわかります。賢治同様、吉松のもっとも身近で理解者だった妹を亡くした話は涙なくしては読めません。で、もう交響曲第5番まで書いてるんだ、この人。同じ時代に生き、交響曲作家として初志貫徹中のホンモノの「現代のベートーヴェン」(いや、シベリウスかf^^;)、もう少し応援しなければいけないという気がしてきました。これを機会に、吉松作品を聴いてみたくなりました。

posted by みっち | 14:15 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
最近読んだベートーヴェン本

この間、「英雄」交響曲のプログラム解説を書くために読んだ本を紹介します。ほかにもっと読むべき本はあったのですが、今回は入手が間に合いませんでした。


◯『図説ベートーヴェン―愛と創造の生涯』
青木やよひ著、河出書房新社

 

ベートーヴェンの「不滅の恋人」について、アントニア・ブレンターノ説を採る著者の一冊。この人の本は随分昔に文庫でも読んだことがありました。「不滅の恋人」候補でもう一人有力なのがヨゼフィーネ・ブルンスヴィックで、どちらかといえばヨゼフィーネ説の方が優勢という印象がありますが、結論には至っていないようです。

 

現代に書かれた解説本としてはやや情緒的というか、感情移入しすぎな傾向を感じるところがありますが、それこそがこの著者の執筆理由なのでしょう。あくまで伝記主体で音楽の分析や解釈などには入り込むことはないので、読み物としては楽しめます。図説だけあって、写真や画像が豊富なのもいい。ちなみに「不滅の恋人」宛に書かれた手紙とともにベートーヴェンの遺品から出てきた肖像画は、確かにアントニアに似ています。ただし、エロイカについて書く参考には全然なりませんでしたf^^;。

 

 

◯『ベートーヴェンの日記』
メイナード・ソロモン編、青木やよひ・久松重光訳、岩波書店

 

1812年から1818年までの間にベートーヴェンが書き残していた記録をまとめたもので、日記というより備忘録的なものがほとんど。まとまった文章ではありません。しかし、ちょうどこのころは、ベートーヴェンにとって作品がほとんど残されていないスランプと見られる時期に当たっており、上記の「不滅の恋人」との破局も含め、こうしたメモを残す理由が彼にはあったようです。


ホメーロスやインド哲学、カントなどからの引用からは、ベートーヴェンに幅広い見識があったことと同時に、当時これらの言葉を胸に刻んで自らを励ましていたことがうかがわれます。にしても、使用人に対する不信感はなんなのかとも思うけど(爆)。伝聞でなくベートーヴェン自身が書き残したものという点でもちろん、この時期を経て後期の高みに達したことからしても、たいへん貴重なドキュメントといえます。ただし、これもエロイカの参考にはならずf^^;。

 

 

◯『鳴り響く思想 現代のベートーヴェン像』
大宮眞琴、谷村晃、前田昭雄監修、東京書籍


序論によれば、現在のベートーヴェン研究は細分化されすぎて、まとまった記述が困難になっているらしい。それを逆手に取ってということか、序論を含めて19人の担当者がそれぞれの視点・角度からベートーヴェンについて語るというコンセプトで、手法だけでなく結果としてもなかなか興味深いものになっています。


第5章「ベートーヴェンの経済生活」でなんか見覚えがあるというか、正直嫌いなタッチの文章で、担当者を見たら、以前シューマン本でお目にかかった井上和雄じゃありませんか。ここでは専門らしい経済学的な観点からベートーヴェンの生活ぶりについて語っていて、その限りでは面白かった。お金に関わることなら事実に即して書くこともできるんだ。とはいえ、せっかくの文章の前後に天才論とか芸術至上主義論とかをくっつけてぶち上げるのは勘弁してもらいたい。いいこと書いたつもりかもしれないけど、読まされた方はたまりません。

 

同じようなことが第10章の前田昭雄にいえます。例によってというか、知人に宛てた手紙のようなスタイルで、ここでは「児島さん」に向けて、これまた例によって有名出版社の博士が自分のところに相談に来たなどというエピソードを必ず盛り込んでくれています。こういうことを書かないではいられないらしいですが、「リア充」自慢してるヒマがあったら、日本語のシューマン本ちゃんと出してよね。


この中では第9章「《エロイカ》から《運命》へ」(大宮眞琴)が楽曲解説の参考になりました。このほか、いわゆるピリオド楽器による演奏比較や現在のベートーヴェン演奏についての批判など、うなずけるものが多かった。

 

 

◯『ベートーヴェンとその時代』
カール・ダールハウス著、杉橋陽一訳、西村書店


「大作曲家とその時代」というシリーズの1冊。約400ページの厚い本で、読み通すのに苦労します。訳者あとがきで大まかな要約がたどれるため、まずはそちらから読んだほうがいいかも。


一言でいって、回りくどい。過去から執筆時点にわたるさまざまな学説・解釈から引いてきており、博識なことはわかりますが、ああでもないこうでもないが多すぎて、結局なんなの? というところがどうもよくわかりません。実際、文体としても限定付きの否定や二重否定が多く、訳者あとがきではこのような否定形はほとんど見当たらないため、翻訳の問題というよりダールハウスのスタイルなんでしょう。あと、トポス、レプリーゼ、シンタクスなどなど、なじみのないカタカナ用語が頻出します。一部譜例が付いていて判明したのですが、レプリーゼとは再現部もしくは主題の反復のことらしい。これらはなんの前置きも注釈もなく使われます。官庁のカタカナ語の羅列も激しいけど、こっちも負けていない(爆)。


逆説的な解釈が多く見られますが、だからどうした的な印象から脱しない。例えば、「告別」ソナタについて、ダールハウスはこの曲の楽章経過は伝説的含意に入り込むのでなく、逆にそこから遠ざかっているとし、その論証の前提としては、出発点が結果を明らかにするのでなく結果が出発点を明らかにするということだ、などと述べています。これでも文章の順序などをいじってかなり読みやすくしたつもり。しかし、そもそもこのソナタは標題音楽というわけではないので、経過が標題的でないといったところでなにをいまさらだし、どっちがどっちをというより、音楽は出発点と結果の双方がお互いを照らし合うものではないでしょうか?


終始こんな調子で、最初はがんばって読んでいてもうんざりしてきて、あまり良く知らない曲や聞いたことのない評論家の話などは読み飛ばすようになり、ときに重要な示唆が含まれていたとしても、見逃してしまっていそう。例えば「英雄」第1楽章のチェロ主題は、分散三和音と半音階法という配置が「テーマ的なもの」なのだそうです。ダールハウスにとってはテーマとテーマ的なものは違うらしく、「テーマ法」とか「テーマ的布置」などの問題についていろいろ語っていますが、この辺は音楽学を専門にやっていないと理解不能かもしれません。テーマ的なものも含めてテーマなんじゃないの?などという大ざっぱな解釈は許されないみたい。晩年のダールハウスが孤立していたというのは、こうした言葉の迷宮に入り込むような面倒臭さに原因があるのではなどと、余計なところに気を回してしまいました。


ベートーヴェンとその作品についてというより、ベートーヴェンを語る方法論についての方法論になってませんかね、これ。少なくとも、『ベートーヴェンとその時代』というタイトルには偽りあり。このことを自覚しているらしい著者は「前書き」で言い訳していますが、このそもそもからして遠回し。

posted by みっち | 12:40 | 読書 | comments(4) | trackbacks(0) |
筒井康隆コレクション V

1. 『フェミニズム殺人事件』
2. 『新日本探偵社報告書控』
3. 『12人の浮かれる男』
4. 『女スパイの連絡』

 

(日下三蔵・編 出版芸術社)

 

全7冊の第5巻。『フェミニズム殺人事件』以外は未読でした。

 

『フェミニズム殺人事件』は1989年発表のミステリ作品。この作品の連載中には犯人当ての読者イベントが開催されており、作者による結果発表も収録されています。見事正解者がいますねえ。みっちは以前読んでいましたが、舞台となった古き良きを思わせる南紀のホテルのイメージとラストの主人公の台詞のみ記憶に残っていて、トリックや犯人などについては全然覚えていませんでした。あらためて読んでもさっぱり謎解きできず、アタマの悪さを痛感f^^;。でも、何年か経ったら、やはりホテルのノスタルジックなたたずまいと主人公の最後の一言だけは覚えている気がする(爆)。

 

また、作中で『文学部唯野教授』(1990)や『パプリカ』(1993)という、まだ発表前の作品タイトルがネタに使われているのが興味深い。時期的に、唯野教授は執筆中だったのかもしれませんが、パプリカはまだ構想段階? 筒井の推理ものでは、もっと前の『富豪刑事』(1978)もスチャラカで面白いんですが、もうひとつ『ロートレック荘殺人事件』(1990)があって、これはまだ読んでいません。

 

『新日本探偵社報告書控』(1988)は、筒井作品には珍しい、松本清張を思わせるような実録風の中編。戦後間もなくから昭和30年代初頭にかけての大阪が描かれています。実際に探偵業をやっていた叔父さんの記録からこの作品を思い立ったものらしい。作中で紹介される探偵社の報告がカタカナ書きで読みにくかったり、淡々とした筆致で物語として特段起伏があるわけでもないのですが、これらはあえてそうやっているんでしょう。読み進むうちに、実にリアリティに富んだ過去の世界が開けてきます。みっちの親世代やその上の人が読んだら、そうだった、こんなんだったとかみしめてしまうに違いない。『フェミニズム殺人事件』でも少し触れましたが、筒井の「ノスタルジック路線」とでもいえそうな系列に属する作品かと。

 

『12人の浮かれる男』(1975)は、同名の戯曲が存在することは知っていたのですが、小説版が先だったんですね。タイトルでおわかりのように、アメリカ映画の名作『十二人の怒れる男』(1957)のパロディ作品で、浮かれた陪審員たちが無実と思われる被告をよってたかって有罪にしてしまうというお話(爆)。この12人がみなキャラが立っているのがすごい。さすがです。

 

『女スパイの連絡』(1968)は、単行本未収録のショートショート。笑えます。

 

今回も解説が素晴らしく、前巻での眉村卓との合作では眉村から直接フォローがあったことが紹介されたり、いい仕事してるなあと感心させられました。

posted by みっち | 21:33 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
人はさまざま 歩く道もさまざま
芥川也寸志 対話集
(芸術現代社)


4月の北九響定期演奏会で芥川也寸志の『交響管弦楽のための音楽』を演奏することになり、プログラム解説でみっちがこの曲を担当することになったため、いくつか関連本を読んだ中の一冊。

1978年初版で、対談相手が横尾忠則(イラストレーター)、篠田正浩(映画監督)、仲谷昇(俳優)、小倉寛太郎(ハンター)、糸川英夫(工学博士)、平野威馬雄(フランス文学者)、橋本忍(脚本家)、松平康隆(元全日本男子バレーボールチーム監督)、皆川達夫(音楽学者)、柳原良平(イラストレーター)、中島みゆき(シンガーソングライター)、植草甚一(評論家)、寺山修司(詩人)、多湖輝(心理学者)という顔ぶれ。いまからざっと40年前にどんな人が第一線で活躍していたかがわかります。さすがに物故者が多いですが、いまだに現役の人がいるのはすごいですよね!

芥川は必ずしも聞き手というわけではなく、自分からけっこう語っています。作曲については、「プラスでなくマイナスの音楽」を構想していたようで、何回か触れています。ピアノの鍵盤を全部鳴らして、そこから音を引いていくような実験もしていたらしい。シューマンの『蝶々』のラストで、和音から順次指を離して消えていくのに似たイメージでしょうか。チェロを弾く糸川英夫には、芥川が「オーケストラなんか練習していて、(チェロパートに)もっと高くお願いしますっていうと、ハイハイって、どんどん姿勢が低くなっていく。(笑)」とやっているんですが、そういう楽器なんだからしょうがないじゃん、ていうかおかしくない? どんだけ高くお願いしてるわけ(爆)。一方で、音楽学者の皆川達夫とは、「中世ルネサンス音楽史の権威」と紹介しながらワイン談義に終始していますf^^;。これはこれで楽しい。

どの対話も面白いんですけど、いちばん印象に残っているのはハンターの小倉寛太郎かな。アフリカで実際に猛獣を狩っていた人の体験談で、ちょっとほかでは聞けないし、いまではもはや無理かも。芥川のオカルト嗜好?も多分に現れていて、横尾忠則とは初っぱなから空飛ぶ円盤を見た話で盛り上がって、あ然とさせてくれます。平野威馬雄ともお化け談義が繰り広げられ、芥川が「コックリさん」で百発百中だと自慢しているのがニントモカントモ(爆)。寺山修司との対話では、芥川が屍衛兵の経験を語っています。死体置き場の外で見張り番をしていると、背後で何体もの死体が死後硬直によって寝返りを打ったり床に爪を立てたりする音が夜通し聞こえたというのが、なんともすさまじい……。あと、芥川自身は「なんとなく腎臓で死ぬっていう予感」を語っていますが、ウィキペディアには肺癌で逝去とあるので、これは外れたみたいです。
posted by みっち | 21:12 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
筒井康隆コレクション IV
1. 『おれの血は他人の血』
2. 『男たちのかいた絵』
3. 単行本&文庫未収録短編
4. 筒井康隆・イン・NULL4(9号〜臨時号)

(日下三蔵・編 出版芸術社)


全7冊の真ん中にさしかかりました。第3巻の刊行が遅れたので、読んでいるうちに第4巻が来てしまいました。

『おれの血は他人の血』は、昔読んでものすごく面白かった記憶があります。例の「エスクレメントオ!」で、こっちの血まで入れ替わるような興奮を覚えたものです。ヤクザの抗争を描いている点で、ハメット『血の収穫』がすぐ浮かんできますが、小説中でも「まるでダシェル・ハメットだな」という台詞が登場するので、もちろん確信犯というか、『血の収穫』をもっと徹底的にやったらどうなるかといったあたりが執筆動機ではなかろうかと。ハードボイルドかつスラップスティック的な展開を見せながらも物語としてきっちり完結している点で、筒井の長編の中でももっともわかりやすい小説ではないかと思います。

『男たちのかいた絵』は、今回が初読。文庫になっているんですが、読めてなかった。ヤクザものということで『おれの血は他人の血』ともつながる世界ですが、こちらは短編集で、しかも主要登場人物がほぼ全員アブノーマルな性癖の持ち主のため、全体を通じてヤクザ=変態という図式が浮かび上がってくることになります(爆)。その筋から抗議などはなかったのか、心配になります。筒井はこのあとしばらくして断筆宣言に至るのですが、理由はこれとは全然違うものだったわけで。9本目の写真小説『男たちのかいた絵』は、先立つ8本の中から何作かを合体させて1996年に豊川悦司主演で映画化し、これをスチール写真付きでノベライズしたもの。筆者は花田秀次郎とクレジットされていたのですが、実は断筆中の筒井康隆本人の変名だったというオチ。

第3部は5篇。みんな面白いけど、「社長秘書忍法帖」で筒井が山田風太郎に接近しているのが楽しい!

第4部のNULLは、1964年の臨時号(第3回日本SF大会。筒井が実行委員長)で終刊となるため、シリーズもこれでおしまい。第10号では、櫟沢美也の正体が明かされています。びっくりだったろうなあ。
posted by みっち | 13:59 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
筒井康隆コレクション III
1. 『欠陥大百科』
2. 『発作的作品群』
3. 単行本未収録ショートショート
4. 筒井康隆・イン・NULL3(6号〜8号)

(日下三蔵・編 出版芸術社)


すぐ出そうだったコレクション第3巻が音沙汰ないまま年を越してしまい、どうなったのかと思っていましたがようやく刊行されました。編者解説で2015年4月に出版芸術社が新体制に変わったことの報告があり、そのことと関係があったのかも。企画は継続されるようなのでとりあえず安心しました。実はもう第4巻が出ているし。

『欠陥大百科』は、文庫化されなかったためにこれまで読んでいなかった作品。百科事典のような体裁で短編小説とエッセイが混ざっています。1970年の発行ということもあり、エッセイはさすがに時代を感じます。政治的な立場を鮮明にすることはなかった筒井康隆にしても、安保闘争がそう遠いものではなかったことがわかります。昔読めていたら刺激になったろうなあ。精神病院の取材もこの人ならではか。

『発作的作品群』は、小説、エッセイ以外に戯曲や講談、座談会まで入ったごった煮的作品集。基本的に他の作品集で読めるものは除外されていますが、それでもどこかで読んだぞ、と思ったものもありました。ここでは「岩見重太郎」と「児雷也」の2つの講談が印象的。筒井康隆の歴史ものは『筒井順慶』ぐらいしか読んだことがなかったので、こういうのがあると、こっち方面もかなりいけたはずと思えてきます。70〜71年の作品。

単行本未収録ショートショートは、月刊「家庭全科」に連載されていたものだそうです。これも71年なので、当時どれだけ書きまくっていたかがわかりますね。

最後のNULL3では、櫟沢美也名義の作品が3本入っているのが楽しい。どれも不思議な味わいで、本当は誰が書いているのか知らない人が読んだら、どんな才能ある女流が現れたかと興味を惹かれること間違いなしでしょう。櫟沢美也作品集として1冊出しても良かったんじゃないかな。
posted by みっち | 21:23 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
ポホヨラの調べ
シベリウス&ニルセン生誕150年〉
『ポホヨラの調べ』 指揮者がいざなう北欧音楽の森

新田ユリ 著(五月書房)


今年はシベリウス生誕150周年ということで、シベリウス・イヤーとなっています。北九響の11月の定期演奏会でも、後半にシベリウスの交響曲第7番、『フィンランディア』がプログラムに予定され、指揮していただくのはこの本の著者、新田ユリさん。日本シベリウス協会の会長でもあり、先日1回目の指揮者練習があったところです。

タイトルの「ポホヨラ」とは、フィンランドの叙事詩『カレワラ』に出てくる地名で、魔女ロウヒが住む北の国です。この謎めいた地で英雄ワイナモンネンやレミンカイネンの冒険が展開される、というわけで、シベリウスの音楽とは切っても切れない関係ですね。

以下の4章から構成されています。
I. シベリウスの7つの交響曲
II. シベリウスの主な管弦楽曲
III. ゲーゼからニルセンへ
IV. ポホヨラの調べを受け継ぐ者たち

中心はやっぱりシベリウスで、楽曲解説というよりは、作曲当時のシベリウスやフィンランドの状況、音楽のあり方やイメージの核となっている部分を抜き出して特徴的に示す、というスタイルであり、読んでいろいろな発見がありました。例えば、今回北九響が演奏する交響曲第7番については、「未来に続く一筆書き」、「たどり着いた"ド"」という小見出しが付けられています。「一筆書き」は、練習で「途中で止めることが難しい曲」といわれたことと一致します。「ド」に向かって一筆書きのように収束していく曲、ということになるのかな?

シベリウスと並んでデンマークのニルス・ゲーゼとカール・ニルセンについても紹介されていますが、二人ともみっちにはなじみのない作曲家です。ニルセンは激安CDを買って聴いたはずですが、記憶がない(爆)。ゲーゼはシューマンの伝記に登場するので名前だけは知っていました。メンデルスゾーンに招かれてライプツィヒにやってきており、シューマンはゲーゼの名前から自作のピアノ曲にGADE音型を取り入れたりしています。メンデルスゾーン辞任後のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者にゲーゼが選ばれたことで、同じく後任を狙っていたシューマンが落胆し、ドレスデンに移住する一因になったといういわくつき。

加えて、巻末リストとして「北欧の作曲家200人」が参考CDとともにリストアップされており、北欧の音楽に接してみたいという方には非常に使えるガイドブックになっています。きれいで雰囲気のある装丁もいい。
posted by みっち | 17:34 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
筒井康隆コレクション II
1. 『霊長類 南へ』
2. 『脱走と追跡のサンバ』
3. マッド社員シリーズ(全5作)
4. 筒井康隆・イン・NULL2(4号〜5号)

(日下三蔵・編 出版芸術社)


筒井康隆コレクションの2冊目。もうすぐ3冊目が出るらしいので、あわてて読みました。

『霊長類 南へ』(1969年)は、いわゆる「最終戦争もの」、「終末もの」の長編で、その発端のくだらなさがいかにも筒井康隆らしい。その後も人類の愚かさ加減が克明に描かれ、実際こんな結末になってしまっても不思議じゃないどころか、可能性高いよねと思わされます。そんななかで、主人公と女友達の珠子、転落するバスから運よく救出されたツヨシ少年の3人の関係がわずかに救いになっています。この長編には、先に発表された二つの短編がエピソードとして挿入されており、短編発表時のものも掲載されていて、両者を比較することができます。また、文庫版に付いていた小松左京の長い解説が読めるのも貴重です。筒井康隆の作風に関する分析がほとんどで、物語への言及自体はごくわずかなのですが、面白いし、この作品についてはホント読めばわかるので、解説は不要でしょう。
 
『脱走と追跡のサンバ』(1971年)は、『霊長類 南へ』の明快さとは好対照といえるかも。実験的・メタフィクション的作品の系列に属する最初の長編で、後の「七瀬」三部作(とくに『エディプスの恋人』)や『虚人たち』などにつながるテイストがあります。思えば、このころからすでにこういうものを書いていたんだよなあ。読んだ当時は意味がよくわからず、とまどった記憶があります。これを最高傑作という人がいるらしいんだけど、なんで?みたいな。だれか詳しい解説を書いてくれないかな、とも。とはいえ、テンポのよさであっという間に読めてしまうのは、初期作品に共通する要素です。

「マッド社員」は、リクルートの就職情報誌『就職ジャーナル』のために書かれた連作で、主人公の名前が更利萬吉という会社ものになっています。これは知らなかった。掲載媒体を意識してのことでしょう、筒井康隆にしては軽く、落語あるいは小咄の一種として楽しめます。

NULL4号〜5号からの抜粋では、「櫟沢美也」名義で書かれた「マリコちゃん」と「きつね」が懐かしい。これらは角川文庫の短編集『にぎやかな未来』に収録されていたのを読みました。ですます調で童話風な語り口がいかにも女性ぽいんだけど、ブラックなんですよf^^;。小松左京が作者の正体を筒井康隆とは知らずに会いたがったというエピソードは有名? 掲載作に寄せられた星新一のコメントも収録されていて、「御三家」が顔をそろえたかっこう。当時の雰囲気が伝わってきます。
posted by みっち | 20:38 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
シューマン本の世界 その2
前回エントリのつづき。

7. 門馬直美『シューマン』(春秋社)

門馬直美(音楽評論家)は2001年に亡くなっており、この『シューマン』は遺稿集としてまとめられ、2003年に刊行されています。生涯と作品解説という構成ですが、遺稿だけでは不足する箇所を過去の著作やレコード解説などから充当しています。音楽之友社の「名曲解説」シリーズなどでのシューマンの楽曲の多くは門馬直美による解説で、結果として、これ読んだなあ、というものがかなりあります。裏返していえば、日本でのシューマン受容に門馬直美が果たした役割がそれだけ大きかったということになりますね。本当にお世話になりました。

で、書き下ろし部分についていえば、生涯の部分は読みやすくまとまっていますが、例えばシューマンの死因や指の故障についてウォーカー本などは反映されておらず、新しい情報は乏しいといわざるを得ません。ただ、ところどころでほかにない記述があり、とくにヴァイオリン協奏曲をめぐる経緯やシューマンの家族、他の音楽家たちとの関わりについての章は充実しています。もし著者にもう少し時間があれば、他の部分についてもさらに記述がふくらんだかもしれないと思うと残念です。以上のように、情報が古いままのものとそうでもないものが混在していますが、日本人の著作で現在読める「シューマン本」としては、おそらくもっともまとまったものでしょう。

8. 前田昭雄『シューマニアーナ』(春秋社)

はじめにいっておくと、『レコード芸術』で前田昭雄の連載を読んでいたみっちは、書かれた内容の面白さにはしばしば感心させられたものの、独特の持って回ったような面倒くさい文章が嫌いでした。この本を後回しにしたのはそのため、ではなくて、これだけは図書館で借りられず、Amazonで古本を取り寄せなくてはならなかったからf^^;。定価より安かったからいいけど、もう絶版とは。

内容は、著者の「フィルハーモニー」誌などへの寄稿文をまとめたもので、交響曲を扱ったものが中心。例えば交響曲第4番の第1楽章の構成についての解釈などは、これを読む前と読んだ後では、まるっきり感じ方が変わるんじゃないかというほどのインパクトです。ただ、「ライン」の解説を書く目的からすると、なぜか第3番についての情報がいちばん少ない(爆)。それでも、他では読めない指摘の数々で、ちょっとこれどうしようかな、使いたいけど、マニアックすぎるかもなあ、と悩んでいるところf^^;。ほかには、ピアノ協奏曲の成立過程や大作『ファウストからの情景』についての解説などがあり、とくに後者は他に文献もなく貴重ですが、この曲のCDをちゃんと聴けてないので、いずれあらためて。

もっと端的・直截にいえないのか、と抵抗を感じる書きぶりは相変わらずというか、昔みっちがそう感じていたころに書かれた文章だしf^^;。日ごろからシューマンを研究していなければいえないだろうことがてんこ盛りで、シューマン好きなら必読といっていい本です。とくにみっちが共感したのは、シューマン批判への批判で、例えば「シューマンのピアノ曲はシンフォニックといわれ、シンフォニーはピアノ的といわれ、しかも両々否定的なニュアンスでいわれることが多い」(「詩的想念と音楽」)とか、「人は理解できぬものに対してはさしあたり否定的な評価を下すことになる」(「第二交響曲について」)とか。いやまったくその通り。いってやっていってやって(爆)。

惜しむらくは、寄せ集めの成立過程もあって、章によって文体がまちまちだったり、せっかくの作品論が「とりあえずここまで」という感じにとどまっていることです。アラン・ウォーカー本の訳者「あとがき」で、先月亡くなった横溝亮一が前田氏に次のようなエールを送っているのに尽きます。

「私としては本書がシューマン理解にいくばくかでも役立つことを願うと同時に、日本で本格的なシューマン評伝と作品研究書があらわれることを期待している。現在、チューリッヒ大学で教えておられる前田昭雄氏は、ヨーロッパでも有数のシューマン研究家として知られている。氏にはすでに大変興味深い著作『シューマニアーナ』などがあるが、今後、前田氏に重厚なシューマン伝、作品論などを発表して頂きたいという期待を持つのは私だけではあるまい。」


番外編:奥泉光『シューマンの指』(講談社)

2010年、シューマン生誕200周年に発表された小説。フィクションなので「番外編」ということで。「誰が振っても『感動的』に盛り上がるチャイコフスキーのごとき凡庸な音楽とシューマンは根本から違うのだ。」などと、のっけから挑発的な言葉を登場人物に吐かせており、このほか至るところで著者のシューマン愛というか、思い入れの深さがうかがえます。『幻想曲』(作品17)を頂点とするシューマンのピアノ曲についての記述も詳しく、あとこれに譜面が載せてあれば、立派な楽曲解説本として通用するレベルではないかと。折しもみっちはシフのピアノによる『幻想曲』や『森の情景』などシューマンの2枚組録音を聴いていたところで、この本のおかげでより楽しめました。

問題なのは、ミステリー仕立てのストーリーの方かなf^^;。ピアニスト志望だった日本人の手記という形で、永嶺修人なる天才少年の思い出が語られます。この「修人」が「シューマン」を漢字に当てはめたものだということはふつうにわかると思うのと、事実関係の記憶があいまいで、読み進むうちに彼の実在性がだんだん疑わしくなっていきます。このため、やがて起こる殺人事件がどこか現実味に乏しく、被害者もだれそれ? わざわざ事件起こさなきゃいけない相手? というくらいのインパクト。なので最後のオチは、うーん困ったもんだというか、結局クララに相当する人物はどこにもいなかったのね、という落胆の方が大きいかも。それに、同性愛を根底に流すんだったら、子だくさんなシューマンよりもチャイコフスキーの方がよほどふさわしいと思ったり(爆)。
posted by みっち | 22:45 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |