この間、「英雄」交響曲のプログラム解説を書くために読んだ本を紹介します。ほかにもっと読むべき本はあったのですが、今回は入手が間に合いませんでした。
◯『図説ベートーヴェン―愛と創造の生涯』
青木やよひ著、河出書房新社
ベートーヴェンの「不滅の恋人」について、アントニア・ブレンターノ説を採る著者の一冊。この人の本は随分昔に文庫でも読んだことがありました。「不滅の恋人」候補でもう一人有力なのがヨゼフィーネ・ブルンスヴィックで、どちらかといえばヨゼフィーネ説の方が優勢という印象がありますが、結論には至っていないようです。
現代に書かれた解説本としてはやや情緒的というか、感情移入しすぎな傾向を感じるところがありますが、それこそがこの著者の執筆理由なのでしょう。あくまで伝記主体で音楽の分析や解釈などには入り込むことはないので、読み物としては楽しめます。図説だけあって、写真や画像が豊富なのもいい。ちなみに「不滅の恋人」宛に書かれた手紙とともにベートーヴェンの遺品から出てきた肖像画は、確かにアントニアに似ています。ただし、エロイカについて書く参考には全然なりませんでしたf^^;。
◯『ベートーヴェンの日記』
メイナード・ソロモン編、青木やよひ・久松重光訳、岩波書店
1812年から1818年までの間にベートーヴェンが書き残していた記録をまとめたもので、日記というより備忘録的なものがほとんど。まとまった文章ではありません。しかし、ちょうどこのころは、ベートーヴェンにとって作品がほとんど残されていないスランプと見られる時期に当たっており、上記の「不滅の恋人」との破局も含め、こうしたメモを残す理由が彼にはあったようです。
ホメーロスやインド哲学、カントなどからの引用からは、ベートーヴェンに幅広い見識があったことと同時に、当時これらの言葉を胸に刻んで自らを励ましていたことがうかがわれます。にしても、使用人に対する不信感はなんなのかとも思うけど(爆)。伝聞でなくベートーヴェン自身が書き残したものという点でもちろん、この時期を経て後期の高みに達したことからしても、たいへん貴重なドキュメントといえます。ただし、これもエロイカの参考にはならずf^^;。
◯『鳴り響く思想 現代のベートーヴェン像』
大宮眞琴、谷村晃、前田昭雄監修、東京書籍
序論によれば、現在のベートーヴェン研究は細分化されすぎて、まとまった記述が困難になっているらしい。それを逆手に取ってということか、序論を含めて19人の担当者がそれぞれの視点・角度からベートーヴェンについて語るというコンセプトで、手法だけでなく結果としてもなかなか興味深いものになっています。
第5章「ベートーヴェンの経済生活」でなんか見覚えがあるというか、正直嫌いなタッチの文章で、担当者を見たら、以前シューマン本でお目にかかった井上和雄じゃありませんか。ここでは専門らしい経済学的な観点からベートーヴェンの生活ぶりについて語っていて、その限りでは面白かった。お金に関わることなら事実に即して書くこともできるんだ。とはいえ、せっかくの文章の前後に天才論とか芸術至上主義論とかをくっつけてぶち上げるのは勘弁してもらいたい。いいこと書いたつもりかもしれないけど、読まされた方はたまりません。
同じようなことが第10章の前田昭雄にいえます。例によってというか、知人に宛てた手紙のようなスタイルで、ここでは「児島さん」に向けて、これまた例によって有名出版社の博士が自分のところに相談に来たなどというエピソードを必ず盛り込んでくれています。こういうことを書かないではいられないらしいですが、「リア充」自慢してるヒマがあったら、日本語のシューマン本ちゃんと出してよね。
この中では第9章「《エロイカ》から《運命》へ」(大宮眞琴)が楽曲解説の参考になりました。このほか、いわゆるピリオド楽器による演奏比較や現在のベートーヴェン演奏についての批判など、うなずけるものが多かった。
◯『ベートーヴェンとその時代』
カール・ダールハウス著、杉橋陽一訳、西村書店
「大作曲家とその時代」というシリーズの1冊。約400ページの厚い本で、読み通すのに苦労します。訳者あとがきで大まかな要約がたどれるため、まずはそちらから読んだほうがいいかも。
一言でいって、回りくどい。過去から執筆時点にわたるさまざまな学説・解釈から引いてきており、博識なことはわかりますが、ああでもないこうでもないが多すぎて、結局なんなの? というところがどうもよくわかりません。実際、文体としても限定付きの否定や二重否定が多く、訳者あとがきではこのような否定形はほとんど見当たらないため、翻訳の問題というよりダールハウスのスタイルなんでしょう。あと、トポス、レプリーゼ、シンタクスなどなど、なじみのないカタカナ用語が頻出します。一部譜例が付いていて判明したのですが、レプリーゼとは再現部もしくは主題の反復のことらしい。これらはなんの前置きも注釈もなく使われます。官庁のカタカナ語の羅列も激しいけど、こっちも負けていない(爆)。
逆説的な解釈が多く見られますが、だからどうした的な印象から脱しない。例えば、「告別」ソナタについて、ダールハウスはこの曲の楽章経過は伝説的含意に入り込むのでなく、逆にそこから遠ざかっているとし、その論証の前提としては、出発点が結果を明らかにするのでなく結果が出発点を明らかにするということだ、などと述べています。これでも文章の順序などをいじってかなり読みやすくしたつもり。しかし、そもそもこのソナタは標題音楽というわけではないので、経過が標題的でないといったところでなにをいまさらだし、どっちがどっちをというより、音楽は出発点と結果の双方がお互いを照らし合うものではないでしょうか?
終始こんな調子で、最初はがんばって読んでいてもうんざりしてきて、あまり良く知らない曲や聞いたことのない評論家の話などは読み飛ばすようになり、ときに重要な示唆が含まれていたとしても、見逃してしまっていそう。例えば「英雄」第1楽章のチェロ主題は、分散三和音と半音階法という配置が「テーマ的なもの」なのだそうです。ダールハウスにとってはテーマとテーマ的なものは違うらしく、「テーマ法」とか「テーマ的布置」などの問題についていろいろ語っていますが、この辺は音楽学を専門にやっていないと理解不能かもしれません。テーマ的なものも含めてテーマなんじゃないの?などという大ざっぱな解釈は許されないみたい。晩年のダールハウスが孤立していたというのは、こうした言葉の迷宮に入り込むような面倒臭さに原因があるのではなどと、余計なところに気を回してしまいました。
ベートーヴェンとその作品についてというより、ベートーヴェンを語る方法論についての方法論になってませんかね、これ。少なくとも、『ベートーヴェンとその時代』というタイトルには偽りあり。このことを自覚しているらしい著者は「前書き」で言い訳していますが、このそもそもからして遠回し。