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お気楽妄想系のページf^^; 荒らし投稿がつづくのでコメントは承認制としました。
LotRO:春祭り
5周年のお祭りが終わったばかりのような気がしますが、「春祭り」の案内がきました。ブリー、ホビット庄、ケロンディムの花集め、ドゥイルロンドのトガリネズミ踏み、ブリーお祭り会場の迷路、穴熊スミアルでのクローバー集めはこれまでもあったイベントです。ドゥイルロンド〜ケロンディム間で別の小規模な花集めは、いままでなかったような気がする。トガリネズミ踏みが人多くてなかなかうまくいかない場合に、すぐそばで花集めできるのでトークンが集めやすくなっています。あと、ブリー村のあちこちに張り紙がしてあって、これを読むと、なにやら不穏でカメだらけな一連のクエストに巻き込まれますf^^;。英語なのであんまり意味分からないなりにおもしろかったけど、ご褒美がトークンじゃないのはなんで?

お祭りのマントが鮮やかな彩りだったので、とりあえずトークン13枚集めてゲット。5周年のときのプレミアム・トークンは、お金やスカーミッシュ・マークと同じで 直接 wallet に入ったと思うんですが、季節のお祭りのトークンや集めた花はカバンに収納されるので、あれ、別管理かな、と思って残りの半端は捨ててしまったところ、やっぱり wallet に入るんでしたか。とりあえず目的は達したからまあいいやf^^;。

その後、すすめているエピッククエストに戻りました。画像は、アンヌーミナスでアマルシエルからパランティアを取り戻す場面。GossenはLv.55で、このあとデロッサドで過去の回想を体験、アングマールで捕まっていたラエルダンを救出し、ナルクイルの指輪の半分を奪取しました。指輪のもう半分を求めて、フォロヘルへ向かったところです。このごろずっと「力ずく」モードで、いつの間にか片手用の武器を売ってしまってた(爆)。ふつうの戦闘は強いんですが、インスタンスのボス戦などでの恐怖効果や特殊攻撃に弱いようで、ソロ向けにステータス強化されていても、「+希望」のトークンの助けがないとクリアできなかったクエストがこれまで2回ありました。
posted by みっち | 21:03 | LotRO NA | comments(0) | trackbacks(0) |
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』
小澤征爾、村上春樹 著、新潮社

かなり前に、奥方が読めといって下し置かれたお宝本ですf^^;。本としては厚みがありますが、内容のほとんどが対談ということもあり、さらっと読めます。

あらかじめいっておくと、みっちは決して小澤征爾の良い聴き手ではありません。村上春樹の小説も全然読んだことありません。みっちは小澤が指揮したレコードを1枚だけ持っています。ボストン響との最初のマーラーの交響曲第1番です。1番の演奏としては、現在でも存在価値のある1枚だと思います。このレコードについて、この本で村上春樹が「清新さ」と評していたのは、みっちとぴったり同じでした。清新という言葉さえ同じだったのにはちょっと驚きましたが、ほかの人もそう聴いてたんだなあ。

しかし、小澤はこの後、2番「復活」と1番の再録音ぐらいしかマーラーを録音しなかったという記憶があります。もし、3番や7番を録音してくれていたらまた違ったかもわかりませんが、小澤がこの本でもマーラーについて少し語っていて、どうやら3番や7番を敬遠していたようです。8番や9番の録音が出たころには、みっちはメジャー・レーベルの最新盤やいわゆる「名盤」の類から距離を置くようになっていて、当時の看板スターだったカラヤンやバーンスタインなどは敬遠、「同系列」の小澤も「対象外」でしたf^^;。

この本を読むと、やっぱり小澤はカラヤンやバーンスタインにかわいがられたんだなあ、ということがよくわかります。小澤の話の大部分は「まあ、そうだろうな」という範囲内で、びっくりするような内容ではありませんが、カルロス・クライバーとのエピソードは、なるほど、と思わされました。むしろ村上のマニアぶりの方が面白いf^^;。とくに前半は、同じ指揮者やソリストの演奏聞き比べをやっていて、マニアでも相当な部類に入るでしょう。マニアといえば、「レコードマニアについて」という章があり、この中で、小澤はいわゆるレコードマニアたちへの嫌悪感を露わにしています。村上は例外らしいf^^;。そして、村上とこの本を「レコードマニアたちには面白くない内容にする」ことで合意しています。ここは面白かった(爆)。

もう一点書くと、みっちが小澤にあんまり共感できない理由の一つに、かつての日本フィル争議中に分裂して創立された新日本フィルを率いたのが、小澤だったことがあります。この件については、この本ではまったく触れられていませんが、小澤の語る言葉や処し方から推測したのは、この人は本当に音楽だけやりたかったんだろうな、団員の生活と権利を守ることよりも譜読みや演奏をしたかった。だから裁判や政治運動でなく「純粋に」音楽をやれる場を求めたのだろう、ということです。その結果、ウィーン歌劇場の音楽監督にまでなったのだから、本望でしょう。カザルスなどとは対照的ですが、一人では音にならず、ある意味オケ次第でもある指揮者と演奏家の違いということもあるかな?
posted by みっち | 08:29 | 読書 | comments(0) | trackbacks(0) |
『ラヨーク』
ウィキペディアに、「ラヨーク (ムソルグスキー)」を新規投稿しました。

ここまで、「アレクサンドル・セローフ」を加筆し、「ニコライ・ザレンバ」、「アレクサンドル・ファミンツィン」と新規に書いてくれば、「ゲルマン・ラローシ」も含めて、「ロシア5人組」のころに活躍した音楽評論家はだいたいそろったと思います。5人組にとっては、みんな敵陣営ですけどf^^;。

こうなったら、あとは『ラヨーク』で仕上げるしかない、というわけで、無事完結しました。けど、あわてて投稿したので、誤字脱字があとからあとからわいてきて、カッコ悪いことに(ーー;)。もうないやろね。

あと最大の問題は、この曲、聴いたことないってこと(爆)。
posted by みっち | 20:16 | Wikipedia | comments(0) | trackbacks(0) |
ブラッフィー/フェニックス・バッハ・クワイヤーらによるグレチャニノフ『受難週』
・グレチャニノフ:『受難週』 作品58

キャロライン・マーカム(メゾソプラノ)、ポール・ダヴィッドソン(テノール)、ブライアン・テイラー(バリトン)
チャールズ・ブラッフィー指揮、フェニックス・バッハ・クワイヤー、カンザス・シティ・コーラル
録音:2004年3月26、27日
(CHANDOS ANNI 0030 「シャンドス創立30周年記念ボックス」-8)

「シャンドス創立30周年記念ボックス」の8枚目。アレクサンドル・グレチャニノフ(1864〜1956)はロシアの作曲家で、『ロシア音楽事典』によると、アレンスキーやタネーエフ、リムスキー=コルサコフなどに師事した人です。宗教音楽に実績の多い人で、無伴奏声楽が伝統の正教聖歌に器楽を導入しようとして、教会から拒絶されたそうです。

正教会の音楽については、たまたま「ロシアの音楽」記事の下書きの中で触れないといけなくなり、関連項目を読んで多少の知識を得ました。ざっくりした印象では、正教会はカトリックと比べても伝統墨守な雰囲気があって、それだけに古来の様式がよく残されているのかもしれません。ただ、正教会独自の用語が多く、例えばミサを典礼といわずに奉神礼というらしいとか、ラフマニノフの『晩祷』も正しくは『徹夜祷』だとか、耳慣れない言葉がとっつきにくい。せっかくなので、この分野での傑作とされるラフマニノフの『徹夜祷』ぐらいは聴いておきたいなあ、と思っていた矢先にグレチャニノフに遭遇したわけでしたf^^;。

だからなのかわかりませんが、このCDに収録されている『受難週』は伴奏なしのアカペラの音楽です。ただし、みっちの奥方の指摘では、曲中にグレゴリオ聖歌の節がいくつか使われているそうです。正教聖歌でグレゴリオ聖歌を歌うのが正統なのかどうかまでは、よくわかりません。

ゆったりとした旋律が清らかな響きの和声を伴って弧を描きます。旋法と思われる、長調と短調を併せ持つ音階と落ち着いた雰囲気は全曲を通じており、ドラマティックな起伏ではなく、ステンドグラスのように(正教会で使われるのかどうか知らないので、例えていいのかどうかf^^;)、色調はさまざまに移ろいながらも全体の一部をなしている感じ。おかげで曲ごとの対比らしい対比はほとんどありませんが、だからこそというか、まさに天国的音楽になっています。ジャケットの紹介に、このCDがグラミー賞を受賞したとあり、おそらくヒーリング・ミュージックとして評価されたのでしょう。ラフマニノフより後の人ですが、チャイコフスキーの世代といわれてもおかしくありません。とくに、1曲目と最後の13曲目が非常に印象的。この2曲は対比が意識されているようで、終曲では1曲目の旋律が戻ってきますが、そのあともう一段階高く上ったような音楽が現れます。祈りから昇天あるいは浄化、といったイメージを思い浮かべました。

演奏は、名前からしてアメリカの指揮者と団体でしょうか。アメリカの合唱というと、ロジェ・ワーグナー合唱団なんかを思い浮かべてしまうみっちですが、そんな先入観を一掃するような清澄で美しい合唱です。アメリカにロシア正教会の聖歌の伝統があるのかどうか知らないのですが、グレチャニノフはアメリカに移住していますし、ソビエト時代に正教会は弾圧されていたこと、ヴォルコフ『ショスタコーヴィチの証言』への批判的検証をはじめとして、ロシア音楽の研究はアメリカの音楽学者が主導的な役割を果たしていることからすれば、少なくとも演奏の素地はあったとみてよいでしょう。録音も優秀。
posted by みっち | 08:08 | CD・DVD | comments(0) | trackbacks(0) |
書かれちった(爆)
ウィキペディアに「ロシアの音楽」を投稿しようと思って、「下書き」をちまちまとやっていたところ、日曜日にふとメインページを見たら、新着記事に「ロシアの音楽」あるではありませんか! やられた。みっち大ショーーーック!!!

これまでも、「イクシーオーン」だったかな、ギリシア神話もので用意していた記事を先に立ち上げられてしまい、あとから加筆したことはあったんですが、今回のは、かけてきた時間も構想の大きさも段違いで、簡単には気持ちの整理がつきません。とはいえ、1年近くたってもまだ形にできていないのでは、先に書かれても仕方ないのも事実。それに、なかなかよくまとまった翻訳記事なんですよね。こっちはまだ歴史部分しかなくて、しかも情報あるだけぶっ込んだために長すぎてどう整理しようかと考えあぐね中(ーー;)。各共和国の音楽はローカルで手を付け始めていたものの、「ロシアの音楽」としてどこまで対象にするか定かでなく、とくにポップス方面は知識も情報もないので、こりゃ到底一人じゃ無理だなあ、とぼんやり考えていたところでした。よくある、大風呂敷を広げすぎてポシャる話f^^;。ロシアって広いね(爆)。

ええとまあ、まったくムダということにはならないと思います。というか、さすがにそれはしたくない。この間、「ロシア音楽協会」、「無料音楽学校」、「ローレル・フェイ」、「ゲルマン・ラローシ」を立項してテキストの分散化を試みていまして、これをもっと進めていくことで、内容をスリム化できそうな感触があります。最終的にはまとまり具合にもよりますが、「ロシアの音楽」への加筆でなく、「ロシアのクラシック音楽史」とでもして独立記事にするのがいいかな? ある意味肩の荷が下りたので、ますますお気楽にやろう(これ以上無理かも)。
posted by みっち | 19:34 | Wikipedia | comments(0) | trackbacks(0) |
デッドニング
カーオーディオについては詳しくない、というか、音が出ればいいじゃん(爆)、ぐらいにしか考えていなかったので、デッドニングという言葉は知りませんでした。なにかというと、クルマのドアパネルの穴や隙間を埋めたり制振材を施したりして、スピーカーのエンクロージャとしての役割を果たさせようという作業だそうです。

アクアのディーラーからモニター扱いでやってくれるといわれて、それならということでお任せしてみました。デッドニングの考え方自体は納得のいくもので、箱が箱として機能しないことには、スピーカーの本来の実力は発揮できません。ただ、実際にどういう効果があるかは、ユニットの特徴ややり方次第というのもあるし、メカに弱いみっちにはよくわからない世界f^^;。

驚きました。こんなに違うものとは! 基本的にアクアのオーディオ再生音は、低音はないも同然ですが、これはどのクルマでも似たようなものでして、こもらないシャキッとした明るい音だったのでそれでよしとしていました。ところがデッドニング後は、解像度・音の密度が向上してくっきり芯のある音に変貌しました。低音もある程度感じられるようになり、例えばチェロの音などは、はっきりいって蚊の鳴くような再生音だったのが、デッドニング後はちゃんと響きとして鳴っています。音量面でも、以前はボリウムを上げるとガチャガチャうるさくなるだけでしたが、よりパンチの効いた音になって、大きな音が楽しくなっています。

オーディオ再生音以外にもデッドニングの影響はあって、ドアの開閉音がより締まった音になり、走行時の静粛性も増したようです。これだけ違うとすれば、もう必須の作業といってもいいほどです。今回はドアだけでしたが、エンジン音を遮断する意味ではフロントパネルなども効果がありそう。ただしやればやるほど重くなるし、メンテナンス上は推奨されないかもしれません。

デッドニングは有料であれば5万円ぐらいかかるということでした。それでも試してみる価値はあります。なにしろ毎日3時間近くクルマで過ごしているわけでf^^;。うーん、これだけの音が楽しめるとすると、インテリアとかももうちょっと手を入れたくなってきますねf^^;。
posted by みっち | 09:34 | お気楽妄想系 | comments(0) | trackbacks(0) |
『ラ・マンチャの男』博多座公演(2012年)
・ミュージカル『ラ・マンチャの男』

<出演>
松本幸四郎(セルバンテス/ドン・キホーテ)
松たか子(アルドンサ)
駒田一(サンチョ)、松本紀保(アントニア)、石鍋多加史(神父)、荒井洸子(家政婦)、祖父江進(床屋)、福井貴一(カラスコ)、上條恒彦(牢名主)ほか

2012年5月5日(土)、博多座

10年ぶりの博多座公演だそうで、もうそんなに経ったかな?という感じ。家族3人で鑑賞しました。

決してミュージカル好きというわけではないみっちが、これだけは見逃せないと思うのが『ラ・マンチャの男』です。ピーター・オトゥールとソフィア・ローレンによる映画版でその素晴らしさを知りました。物語もいいし、タイトル曲や「見果てぬ夢」などの音楽は名曲ぞろいで、何度聴いても心が躍ります。ちなみに作曲者のミッチ・リーとみっちはなんの関係もありません(爆)。

舞台の仕掛け自体は前回と同じだと思うのですが、新しい脚色でしょうか、オープニングは男性二人によるギター伴奏とフラメンコ・ダンスで、スパニッシュな色彩と陰影が効果的。10年ぶりなので記憶がないだけかな?

松本幸四郎は今年古希だそうで、年齢的にそろそろセルバンテス役には厳しくなってきたかな、でもキハーナ旦那の方ではまだいける、とか、そんな心配を吹き飛ばすような豊かな声量で、素晴らしかった。松たか子も、10年前の若々しくて体当たりの演技という印象から、今回はより充実した歌唱で、非常に聴かせました。幸四郎とのバランスがとれてきたと思います。強いていえば、アルドンサがあんまり「あばずれ」に見えないのが難点かなf^^;。

印象的だったのは神父で、少ない出番ながら、コミカルさと敬虔さを両方出して見事でした。初日ということもあってか、アントニアの声が裏返ったり、牢名主も打楽器伴奏の入りで音程がやや高く、フルートが出たときに微妙に合わないといった不安定さが見られたものの、上條恒彦はアドリブの博多弁で笑わせたりとさすがの貫禄。この牢名主/宿屋の親父あってのセルバンテス/ドン・キホーテでしょう。馬もうまかった(爆)。

サンチョ役(前回床屋役だった人らしい)はしっかり笑いも取って健闘しました。ただ、ちょっと軽めというか、すべてわかった上で一途にキハーナを慕うサンチョならではの凄みがもう少しでしょうか。サンチョはサンチョでもっと泣ける役なので、そう思ってしまうのかも。あと、「ことわざが詰まっている」というほどにはお腹の貫禄も足りない気がしましたf^^;。とまあ、気がついた点を挙げればありましたが、2階席の隅で観たので、表情などの細かいところが見えればまた違うのかも。

とにかく、ステージ右側に配置されたバンドの音楽が鳴りだした時点ですっかり魅入られました。バンドは10人ほどで、ベース以外は管楽器と打楽器ですが、ぜひあの中に入りたい! 「見果てぬ夢」のためだけでもホルン吹きたい! と思ってしまいます。役者たちは後ろ向きで歌っても十分声が届くので、もしかしたら補助マイクを使っているのかもしれませんが、少なくともスピーカーから歌が聞こえて臨場感が失われる、ということはありません。幸四郎の「ドルシネア」あたりからラストの合唱まで、もう心臓わしづかみ(爆)。カーテンコールではスタンディング・オーベーションが起こりました。
posted by みっち | 19:19 | お気楽妄想系 | comments(2) | trackbacks(0) |
『テルマエ・ロマエ』
わが家のホビットは『SPEC 天』が観たかったらしいのですが、上映時間が合わずに第二候補として観たのがこれf^^;。いやー、面白かった。3D版があったら見直したいくらい(爆)。

原作マンガは読んでいませんが、物語の設定は予備知識としてあり、前半はだいたい予想のつく範囲の展開でした。主人公ルシウスのジェネレーション・ギャップとカルチャー・ショックが混ざったとまどい方で、十分におもしろおかしく見せています。なにしろ、浴場からタイムスリップするので基本全裸だし、トーガなどを身につけていても目の前に浴槽があればやっぱり脱ぐわけでf^^;。全裸でうろうろしながら、理屈が分からないものは全部奴隷がやっていると思い込む想像シーンでまた笑わせます。とくに最新式便座とのご対面シーンは、お花畑の演出もぴったりで場内大ウケしてました。

ケロリンとかフルーツ牛乳、タイムスリップシーンで使われる人形とか小ネタがいっぱいあって、その上テノール歌手と思しき人物の歌唱シーンが挿入されてヴェルディやプッチーニの音楽が全編に流れるあたり、『のだめカンタービレ』っぽい、と思っていたら、監督同じ人でしたf^^;。またやってるー(爆)。音楽は、『アイーダ』や『トスカ』、『蝶々夫人』などおなじみのものがほとんどですが、ローマ皇帝を称える場面ではなぜかフォーレの合唱曲『ラシーヌの雅歌』が流れます。ここだけ選曲理由が謎ですが、『のだめ』でも脈絡なく「ニムロッド」使ったりしていたからなあ。好きな曲だからいいやf^^;。

あとは、やっぱりキャラクタですね。古代ローマ人役が阿部寛、市村正親、北村一輝、宍戸開というメンツで、よくもそろえた、と出てくるだけで笑えます。阿部ルシウスは現代日本人を「平たい顔族」と呼ぶのですが、あんたたちこそ「濃い顔族」だろ、と(爆)。個人的には藤岡弘、も使ってほしかったですね、ゲルマンの族長とかで。顔だけじゃなくて、時代考証の面ではこちらも知識が乏しくて判断が難しいとはいえ、古代ローマのシーンは本格的かつスケールが大きく、舞台がやがて「濃い顔族」側に中心が移っていくだけに、後半の展開の説得力を高めています。つっても、温泉が果たしてローマ軍の危機を救えるのかという話になるんですけどf^^;。

そうして、「濃い顔族」たちの物語とともに、後半はヒロインの上戸彩はじめタイムスリップで送り込まれた「平たい顔族」たちがどうなるのか、というのが焦点となり、クライマックスでは今も昔も変わらぬ星空がいい感じです。確かにこれしかないかもね。ちなみに、上戸彩は「平たい顔族」にしては古代ローマ風の衣装がよく似合っていて、そのまま残っていいんじゃない?と思わせます。

なお、タイムスリップの仕組みや原因についてはひとつの要因(帰るとき限定)が示唆されるのみでほかは一切解明されません。ルシウスなんか、最後はもう浴場ですらなくなってるし(一応水はあるけど)。これ、原作ではもうちょっと情報あるんでしょうか? このほか、ヒロインがすぐにラテン語をしゃべれるようになるあたりも『のだめ』ばりで、割り切って観ましょう。 
posted by みっち | 19:16 | たまに観る映画 | comments(2) | trackbacks(0) |