マーク指揮/フィルハーモニカ・フンガリカによるシューベルトの交響曲第5番、第6番
2015.05.28 Thursday
・シューベルト:交響曲第5番変ロ長調 D485
・シューベルト:交響曲第6番ハ長調 D589
ペーター・マーク指揮、フィルハーモニア・フンガリカ
録音:1969年
(Documents 231557)
ペーター・マークによるシューベルトの交響曲全集3枚目。
交響曲第5番は1816年、シューベルト19歳のときの作品。第4番と同じ年に書かれています。雄渾な第4番とは対照的に、室内楽的編成による典雅で美しい旋律がいかにもシューベルトらしい。同時に、第1楽章の再現部で第1主題が主調に復帰せず、第2主題でようやく変ロ長調を取るというシューベルト独自の手法が打ち出されていたり、各楽章で長調から短調への転調によってさっと表情を変えていく一筋縄でない進行があちこちにあって、複雑味を増していることも特筆できるでしょう。一見明るく無邪気な曲に、後年の暗黒面がちらちら顔を出している気がして、このあたりがシューベルトの作風の転換期なのかな? もしかしたらこの年なにかあったのかも……。
などと考えたのも、マーク/フィルハーモニア・フンガリカの演奏のせいかもしれません。速いテンポで流すのではなく、腰を落ち着けて音楽の表情変化をきっちり汲んで進むので、聴くうちにいろんな「発見」があります。古典的フォルムに則った爽やかな曲、というイメージがちょっと変わるかも。このテンポだと快活さはややそがれますが、反面第1楽章の第2主題などはとても優雅。ほかの録音をあまり知らないので断言はできませんが、掘り出し物といっていいのでは?
交響曲第6番は1818年、シューベルト20歳から21歳にかけての作品。この曲は生前には演奏されなかったようです。シューベルトのハ長調交響曲は2曲あるため、こちらが Kleine(小さい)で、後の方が Große(大きい)、これが「グレイト」の由来になっています。でも6番を「リトル」とは呼ばないため、「グレイト」がまるで標題や副題のような印象を受けますよねf^^;。ちなみに、ベトベンにはヘ長調交響曲が2曲(「田園」と8番)ありますが、作曲家はこういう調性をどうやって選んでいるんだろう?
第1楽章は序奏の後、木管の愛らしい第1主題が耳に残ります。第5番の路線継承かと思いきや、第2主題も含めて主要なフレーズが全部木管という木管偏重ぶりが目立ちます。第2楽章は三部形式のようですが、その中間部も含めて変奏曲ぽく、シューベルトの得意とする「歌」でなく、音型いじりとでもいえそうな進行になっています。どうもなにかこれまでと違う、と思っていたら、第3楽章で答えが見つかった気がしました。ここでの特徴的なリズムやダイナミクス変化などは、明らかに「ベト7」のスケルツォを参考にしたものです。フィナーレでは、突然の強奏が「ベト8」由来か。さらに、両端楽章ではこれまで淡泊そのものだったコーダを長くし、なにかやらねば的な盛り上げ方になっています。
どうやらこの時期、シューベルトはベトベンの洗礼というか「毒気」に当てられたようです。残念というか当然というか、ご本尊の域には到底達していないため、全体のまとまりを欠き、独自性の点でも5番を大きく割り込む形になったのが、演奏されない理由でしょう。想像するに、シューベルトが受けたベトベン・ショックはかなり大きかったのではないでしょうか。この後、「グレイト」まで交響曲を完成させられなかった理由は、これではないかという気がします。
ここまで聴いてきて、マークの演奏は、曲がいいほど演奏もいいという傾向があり、音楽にきわめて誠実といえるでしょう。端的なので、曲のできがそのまま演奏に直結している。こうなると、残りの曲に期待がかかります。
・シューベルト:交響曲第6番ハ長調 D589
ペーター・マーク指揮、フィルハーモニア・フンガリカ
録音:1969年
(Documents 231557)
ペーター・マークによるシューベルトの交響曲全集3枚目。
交響曲第5番は1816年、シューベルト19歳のときの作品。第4番と同じ年に書かれています。雄渾な第4番とは対照的に、室内楽的編成による典雅で美しい旋律がいかにもシューベルトらしい。同時に、第1楽章の再現部で第1主題が主調に復帰せず、第2主題でようやく変ロ長調を取るというシューベルト独自の手法が打ち出されていたり、各楽章で長調から短調への転調によってさっと表情を変えていく一筋縄でない進行があちこちにあって、複雑味を増していることも特筆できるでしょう。一見明るく無邪気な曲に、後年の暗黒面がちらちら顔を出している気がして、このあたりがシューベルトの作風の転換期なのかな? もしかしたらこの年なにかあったのかも……。
などと考えたのも、マーク/フィルハーモニア・フンガリカの演奏のせいかもしれません。速いテンポで流すのではなく、腰を落ち着けて音楽の表情変化をきっちり汲んで進むので、聴くうちにいろんな「発見」があります。古典的フォルムに則った爽やかな曲、というイメージがちょっと変わるかも。このテンポだと快活さはややそがれますが、反面第1楽章の第2主題などはとても優雅。ほかの録音をあまり知らないので断言はできませんが、掘り出し物といっていいのでは?
交響曲第6番は1818年、シューベルト20歳から21歳にかけての作品。この曲は生前には演奏されなかったようです。シューベルトのハ長調交響曲は2曲あるため、こちらが Kleine(小さい)で、後の方が Große(大きい)、これが「グレイト」の由来になっています。でも6番を「リトル」とは呼ばないため、「グレイト」がまるで標題や副題のような印象を受けますよねf^^;。ちなみに、ベトベンにはヘ長調交響曲が2曲(「田園」と8番)ありますが、作曲家はこういう調性をどうやって選んでいるんだろう?
第1楽章は序奏の後、木管の愛らしい第1主題が耳に残ります。第5番の路線継承かと思いきや、第2主題も含めて主要なフレーズが全部木管という木管偏重ぶりが目立ちます。第2楽章は三部形式のようですが、その中間部も含めて変奏曲ぽく、シューベルトの得意とする「歌」でなく、音型いじりとでもいえそうな進行になっています。どうもなにかこれまでと違う、と思っていたら、第3楽章で答えが見つかった気がしました。ここでの特徴的なリズムやダイナミクス変化などは、明らかに「ベト7」のスケルツォを参考にしたものです。フィナーレでは、突然の強奏が「ベト8」由来か。さらに、両端楽章ではこれまで淡泊そのものだったコーダを長くし、なにかやらねば的な盛り上げ方になっています。
どうやらこの時期、シューベルトはベトベンの洗礼というか「毒気」に当てられたようです。残念というか当然というか、ご本尊の域には到底達していないため、全体のまとまりを欠き、独自性の点でも5番を大きく割り込む形になったのが、演奏されない理由でしょう。想像するに、シューベルトが受けたベトベン・ショックはかなり大きかったのではないでしょうか。この後、「グレイト」まで交響曲を完成させられなかった理由は、これではないかという気がします。
ここまで聴いてきて、マークの演奏は、曲がいいほど演奏もいいという傾向があり、音楽にきわめて誠実といえるでしょう。端的なので、曲のできがそのまま演奏に直結している。こうなると、残りの曲に期待がかかります。